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花冷えの夜に
by cafetime 2010-4-2
あれから四ヶ月が経った。死力を振り絞り走り切った、あの東京高校駅伝大会からだ。
三年目にして掴んだ花の一区を走るために、オレは受験勉強も疎かにして走り続け、そして一区を走り切った。
一区の途中、一年生の頃からライバル関係だった百草高校の町田康一とのデッドヒートになった。抜いては抜かれ、抜いては抜かれを繰り返し、最後の最後、ゴール前の瀬戸際でついに町田康一を置き去りにして、二区を走る後輩、相原英太にタスキを繋ぐ事が出来た。
走り切った。
ついにオレは走り切ったんだ。一区を。駅伝を。陸上部を。
そう思っていたのに、高校生活にはまだ続きがあった。高校生を走り切るのには部活だけでは駄目だったのだ。人生は高校で終わる訳じゃないからだ。
二、三日は部活を引退した余韻だけで暮らしていた。授業中も、お昼休憩中も、家で家族と話していても、何かが足りない様な気がして、地に足が着かなかった。
学校の廊下で陸上部の短距離顧問である志田先生に会うまでは何もする気がしなかった。じゃあ志田先生に会って、何があったのかと言えば、単純なやり取りがあっただけだ。
「雪沢、お前、大学受験は順調なのか」
それだけだ。何の配慮もなく言われた志田先生の言葉がオレの目を覚まさせた。
陸上部は引退した。それで高校生活が全て終わったんじゃない。最後にまだやる事が残っていたんだった。それは受験という冷たい響きを持つ試練だった。
翌日からは必死に勉強をした。部活ばかりやっていて、他のクラスメイトからだいぶ遅れているのに気がついた。通常の授業を受け、放課後に先生の所で進学の相談をし、夜は進学塾に通った。
ある日、進学塾の若手講師がこんな事を言った。
「世の中、学歴が物を言う時が必ずある!だから今やらなきゃ駄目なんだ!今、勉強しなかったり部活や文化祭やバイトに明け暮れてるヤツは、今が楽しいだけの馬鹿だ。将来必ず駄目になる。いいか、今勉強して将来笑うんだ!!」
殴ってやろうかと思った。体の奥から湧き上がる怒りが右手に伝わり拳を握りしめてしまった。持っていたシャーペンがギシギシと音を立てていたが、オレはその若手講師の講義を最後まで聞いた。
十二月に入ると、勉強をする事が当たり前で、あんなに毎日走り回っていたのが遠い昔の事の様に思えてきた。学校に行き、進学塾に行き、家に帰ったら一日の復習をして深夜に寝る。
毎日毎日の朝が辛くなったけど、あの若手講師の言った「将来笑え」という言葉が頭に張り付き、おかげで受験勉強の遅れは取り戻せた。
クリスマスの日でさえ進学塾に通っていた。講義を受け終え、携帯電話を見ると、珍しい人物から着信があった。同じ陸上部で短距離の女子エースであった二本松ゆりえからだった。
進学塾から最寄りの駅までは歩いて五分ほどかかるので、その間に会話しようと思って電話してみた。二本松はすぐに電話に出た。
『もしもし』
「あ、もしもし、あの、雪沢だけど」
電話の向こうで息を飲む気配があった。何だろうと思っていると『あ、ゴメンね、急に電話なんかして』と謝られた。
「いや、別に、大丈夫だよ」
『忙しかった?電話してて平気?』
「平気平気。今、塾の帰りなんだ」
『そっか。なんだ、デート中だったらどうしようかと思った』
「そんな暇ないよー」
そこからお互いの近況を笑ったり愚痴ったりしながら会話を続けた。気がつくと三十分近くも電話していて、オレは駅の近くをウロウロと歩きながらずーっと電話をしていた事になる。
『じゃあまたね。来年もヨロシク』
「ああ、またね」
電話を切ると、自分が何だかホッとしているのに気がついた。それでいてもう少し二本松と話したいという寂しさみたいなのが感じられて、なんだっけこの感情って思った。
年が明けると受験の忙しさは熾烈を極めた。センター試験、本試験と続き、それに向けて、まさに「勉強漬け」の毎日となった。その忙しさはハンパじゃあなく、身も心も疲れ果てていると自分で認識できるくらいだった。
あまりの疲れに駅の階段を登るのだけで息が切れたりもした。十キロを全力で走ったり、富士山を走って登ったりしていた自分が嘘の様で、あれは何かの夢だったんじゃないかと錯覚してしまうほどだ。
その陸上部仲間だった穴川は早々に家業を継ぐ事を決めていて、調布にあるという親父さんの「穴川寿司」で店の手伝いなんかをしているらしい。
「寿司ってのは奥が深い。んな事はわかってたんだけどよ。接客とか仕入れとか、店を経営していくための方法が意外と難しくてさ、本とか読んでるんだ」
穴川は苦労している様に言っていたが、俺には穴川が楽しそうに見えた。目標が見えていて努力しているヤツは凄い。それでいてやりがいまで見えているので羨ましかった。その時のオレは大学に入るという事だけが目標であって、その先が見えていないのだから。
一度だけ陸上部の様子を見るために校庭で足を止めた事があった。寒い冬の日だ。
後輩達は相変わらず、顧問の五月先生の元で必死そうな顔して走っていた。走るという行為に何の疑問も持たず、ただひたすら練習を繰り返している姿を見ていたら、涙が出そうになってしまい、後輩達に見つからない様に去ろうとした。
「何してんの」
急に声をかけられ、そっちを見ると二本松ゆりえが不思議そうな顔をして立っていた。長いストレートの黒髪が風に揺れていた。
「何だ二本松か」
「何だって何よ。久しぶりだから声かけてみたんだよ。何してんの」
「何って・・・。ちょっと陸上部を見てただけだ」
「ああ、凄いよね。あのコ達。こんな寒い中、練習してんだもん。もうムリだよアタシには。ホントに去年まで一緒になって練習してたのかなって思うよ」
二本松も同じ様に思っていたらしい。もう、走っていたのは遠い過去の物になろうとしているんだ。
「一緒に帰ろうよ」
ふいにそう言われ、何故だか嬉しくなってしまった。
「いいよ」
すると二本松は笑顔になり、オレと二本松は一緒に学校を出た。色々と話が盛り上がり、ファミレスで二時間もおしゃべりをしてしまった。ドリンクバーだけの注文で。
オレは東京都内の大学を目指していた。二本松は神奈川県の大学を目指しているという。
「二人ともうまく合格して、卒業してからも会えるといいね」
二本松はジュースをすすりながらそう言った。
「卒業してからも・・・か。そうだな、会って・・・、どっか遊びに行けたらいいな」
つい本音を言ってしまった。オレは何故だか二本松と話していると安心する様な感情を持っていて、卒業してからも会いたいと思ってしまったのだ。
「うん、行こう」
そうしてセンター試験が終わった頃、オレと二本松は何度か二人でファミレスでおしゃべりを繰り返していた。
ある日、ファミレスを出ると、もう夜になっていて、駅までの道を二人で歩いていると、二本松が「あのさ」と小さな声で呟いてきた。
「ん?」
「手、いい?」
最初、何の話だかわからなかった。でも一瞬遅れてオレは「いいよ」と言った。
互いが同じタイミングで手を繋いだ。寒い冬の中でも、二本松の手は暖かった。
オレの受験の結果が発表された。希望の都内の大学に合格していた。オレは嬉しくなり、二本松に電話した。しかしこの日は電話には出てくれなかったので、オレは穴川に報告し、二人で「穴川寿司」に出かけた。
穴川の親父さんが「お祝いだ!!」と言って特上のマグロを出してくれた。オレはいいですいいですと断ったのだけど、「今日はお祝いだからいいんだよ!」と穴川が言い、高級なお寿司をたらふく食べさせてもらった。
五月先生や志田先生にも報告したら、みんな喜んでくれた。でも二本松にはなかなか連絡がつかなかった。
ようやく二本松が電話に出たのはオレの合格発表から三日も経ってからだった。
『合格したの?おめでとう!!』
「うん、頑張った甲斐があったよ!!」
その時、オレは気づくべきだったんだ。二本松が自分の話題を一切しないことに。
「二本松はどうなの?」
全く配慮に欠ける言葉に二本松は落ち込んだ声を出した。
『駄目だった・・・』
「え・・・」
『神奈川の大学、落ちた。次の事を考えなくちゃ』
次の事。そういえば二本松は第二希望の大学もキチンと進めていた。それはどこだったか。
『仙台の大学なんだよね』
「仙台・・・」
地面が揺れたかの様だった。仙台。宮城県だ。遠い。
それでも僕らは週に一度くらいは会った。仙台の大学は見事合格し、二本松は卒業したらすぐに仙台に引っ越す事となった。
合格が決まった頃から、オレたちは手を繋がなくなった。
そうして迎えた卒業式。後輩達に見送られ、オレはついに多摩境高校を出た。
校門を出る時、一度振り返って、校舎の方に向かってお辞儀をした。
ありがとう、と。
二本松ゆりえが仙台に引っ越す当日、オレは連絡をして、東京駅まで送りに行くと申し出た。
『いいよそんな遠くまで』
「気にするなって」
『じゃあ・・・、いつものファミレスに来て』
ファミレスで待ち合わせて、いつもの様に二時間くらい話した。話しても話しても話足りない様な気がした。そして店を出た。
「わあ、見て」
ファミレスの前の道には桜が咲き始めていた。それなのに寒い空気が辺りを包んでいた。寒いせいか空気が綺麗だった。綺麗な空気の中で咲く桜は、不思議な魅力を放っていた。
「雪沢くん」
「ん?」
「もう一度だけ、手、いい?」
「・・・いいよ」
オレと二本松は手を繋ぎ、駅の方へと歩き出した。それは、オレと二本松が最後に手を繋いでいた時間でもあった。二本松の手はいつかと同じ様に暖かくて、二度と離したくないと思いたくなった。けれど、電車の時間はやってきて、彼女は切なそうに微笑みながら去っていった。
駅に入る時、二本松は小声でこう言った。
「雪沢くん、楽しい想い出ありがとう。絶対、元気でね。またね」
今の時代、東京と仙台なんて、別にすぐにでも行ける距離だ。ましてや携帯電話を使えば話なんていくらでも出来る。
それなのにオレと二本松はそれ以降、たまにメールをする程度の関係になってしまった。
そうして時は過ぎ、陸上部で走っていたのが、本当にはるか昔の話になってしまった頃、二本松は仙台で幸せを掴み、オレはオレで目標を持って大学で生活していった。
オレと二本松はそのまま二度と会う事もなく、それでいて年に数回メールを交わすという不思議な友情で結ばれていき、恋愛に発展する事は無かった。
それでも毎年、桜が咲いた後に寒い夜がやってくるとオレは思い出す。
あの花冷えの夜に、二本松と手を繋いで歩いた時間を。
読切「花冷えの夜に」 END
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