空の下で-虹(4) 最終選考(その2)
秋の夜は静かだった。
午後八時といえば、いくら郊外とはいえ東京都に所属する堀之内はまだまだ通勤時間だ。
それでも駅前から離れた住宅街は人通りが少なく、加えて車の出入りも少ないので虫の音しか聞こえなかった。
自宅での練習用に買ってもらった安いジャージを上下に着込み、玄関の前で軽い準備運動をしてから走りだす。
部活以外で走る時のコースはいつも同じだ。
家から住宅街を通り抜け、近くの小さな川へと向かう。
その川沿いには細いながらも走ったりサイクリングしたり出来る道があり、それを下流へと向かうのだ。
今年の初め、あの厭味ったらしい松梨付属の香澄圭を見かけたのもこのコースでの事だった。
リズム感を保ちながら川沿いを下流へと走る。
軽やかで楽しい。
何故だか心が軽いんだ。
さっきのくるみとの会話がそうさせたのか。
最近悩んでいた「僕ってこんなんでいいのか」という疑問は過去へと置いてきた感じだ。
彼女のくるみにも、長年一緒にいる牧野にも「そのままでいい」という様な事を言われ、僕自身も「このままでいいか」と思えたからこそ、軽やかに走れている。そう思う。
ただ、実力の方はこのままでいいとは思わない。
駅伝大会まではわずか一ヶ月だから、そんなに実力がググンと上がる事は無いとは思うけど、今のままでは関東大会へと進むのは厳しい情勢だ。
まだメンバーは固まってないけど、僕らの自己ベストタイムを計算して、去年の駅伝の記録と照らし合わせてみると、順位は20位あたりという事になる。
去年は25位だったので前進はしているのだけど、雪沢先輩や穴川先輩の抜けた穴を埋めるくらいにしかなっていないのが現状だ。
関東へ進むには8位内に入らなくてはならない。強豪がひしめく東京都で8位というのは本当に夢みたいな順位だ。
目安として目標としたのは松梨大学付属高校だが、彼らでさえ優勝した事は無い。
五月先生いわく、今年の松梨は「4位から6位くらいかなー」と言う事だ。
確かに試合中に松梨を目安としていれば関東へのペース配分などの戦略にもなる。
ただ、あまりにも高い目標でもある。
「んー、焦らない焦らない」
走りながら思った事が口に出てしまった。
今回の目標、名高なんかは大いに燃えている。本気で関東に行くつもりでいるし、「うちの地区最強ってのを松梨から奪いとれたら面白ろいな」とか言ってる。
確かに名高一人の個人戦なら勝てるだろう。でも駅伝はチーム戦だ。誰か一人が凄くても仕方が無いんだ。みんなが強く早くならなくては。
夜、一人で川沿いを走る時はいつもこんな風に考え事をしてしまう。
もちろん陸上の事だけじゃない。くるみの事だって考えるし、進学の事だって考える。
そんな時間が好きだ。一人で物想いにふけりながら走る夜という時間が。
時折、同じ様にランニングしている人とすれ違う。
本格的なランナーから健康作りのためにジョギングしている人まで様々だ。
きっと、それぞれみんなが何かしらの想いを込めて走っているんだろうな、と想像する。
そんな時だ。
リズム良く足音を鳴らしながら後ろから接近してくる気配を感じた。
すごい軽やかな足音と乱れの無いリズム感。
振りかえって姿を確認しなくても、相当なランナーが素晴らしいフォームで走っているのが感じ取れる。
まさか?
息切れはしてないのに動悸を感じた。
この足音とリズム、これは今までに感じた事があった。
その人物は僕の横を通り、追い抜いた。
頭の後ろで結んだ黒い髪の毛が左右に揺れている。
後ろから見たら女の人かと思う様なこの髪形は・・・
「か、香澄圭」
思わず声に出してしまい、香澄圭はこちらを振り返った。
少し不思議そうな表情で僕を見ていた香澄だったが、数秒して「あ」と呟き、僕の横で並走した。
「どうも、キミって確か多摩境高校の相原クンだったよね」
「あ、どうも、こんばんは」
僕も相手もそんなに息切れはしてない。どうやら香澄も軽いジョックをしている様子だ。
「こんな遅い時間に練習?熱心だねえ」
香澄は熱心だねって部分を少しいやらしく発音した。
「香澄くんだって練習でしょ?」
「まあそうだね。駅伝大会で関東に確実に進める様にしたいからさ」
「関東に」
「そ。ボクがアンカーだからさ、何かのトラブルでチームが遅れていても、すぐに取り戻して八位内でフィニッシュ出来る様にね」
「香澄くん、アンカーなんだ」
「そ。アンカー。それより相原くんは何の練習?」
「何って・・・そりゃこの時期だから駅伝に向けた練習だよ」
「駅伝・・・」
川沿いのコースは折り返しポイントへと到着した。
僕も香澄もここで上流へと引き返す。
「多摩境高校って駅伝で何目指すの?関東は無理でしょ?努力賞?そんなの無いか」
「む・・・」
腹が立って走りに乱れが出た。それに気付いて一度深呼吸する。
「無理かどうかはわかんないよ。やってみなきゃ」
「へえ?だって名高くんはいいとしても、キミと牧野くんでやっとそこそこのレベルなだけじゃん。後の選手なんて名前も知らないし・・・」
「あのさ」
また走りに乱れが出そうだったので今度はフーっと息を吐いた。
「僕の事はなんて言ってもいいけど、仲間の事を侮辱したら許さないよ」
「へえ?じゃあ楽しみにしてるよ。せいぜい頑張って僕ら松梨の背中がちょっとでも見えたらいいね」
どうやら僕って負けず嫌いというか、挑発に乗るクセがあるらしい。ここで余計なひと言を言ってしまった。
「背中どころか追い抜く様に頑張るよ」
香澄はひゅうっと口笛を鳴らして「強気だねー」と言い残して、川沿いではない方向へと曲がって行った。
「嫌なヤツ・・・」
二日後、授業と授業の間の休憩時間中に廊下で五月先生に話しかけられた。
「おう相原、お前なかなかやるな」
五月先生は嬉しそうにニヤけている。
「はい?何がです?」
「昨日、この辺の陸上部顧問の集まりがあったんだよ。色んな高校の顧問が集まって大会運営の話とかするんだけどな。いやー、全然関係無い話はするし、議題のプリントが足りないし、おまけにその後で懇親会っていうか飲み会があってな。先生酔っちゃってさー、二次会のカラオケでロックな曲を選ぼうとしたらリモコンの使い方が・・・」
「えーと、何の話ですか?」
「そうそう、松梨付属の顧問の先生が言ってたんだけどな。相原、お前、松梨に宣戦布告したらしいじゃないかー!」
バシバシと僕の肩を叩く先生。
「せ、宣戦布告?」
「そうだよ。絶対にブチのめすとか言ったらしいな。いやー、相原もなかなかやるなー」
「な、なんか話が少し変わってますが・・・」
「だから先生も松梨の顧問に言ってやったんだ。油断してると足元すくわれますよって。あはははは!」
こうして僕らの「目安」としての打倒・松梨は、「公言」されての打倒・松梨にすり替わってしまったのだった。
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