空の下で-虹(17) 好野博一
染井は一人でクールダウンを行い、一度競技場へと戻って来たところだった。
競技場のメインモニターは先頭の二校の選手が横並びで競い合っているのをバイク中継で正面から映していた。
さっきまで単独トップを守っていた前回覇者の葛西臨海高校が、二位の平和島第二高校に追いつかれ並走している映像だ。
「今、何区すか?」
多摩境高校陣営のテントで待機している短距離の人に聞くと「五区の序盤」という答えが返ってきた。
五区・・・。ヒロか。
「うちは今何位だかわかります?」
「メインモニターには十位までの順位しか表示されないんだ。三区の途中から一度も多摩境の文字は映ってない」
「そうすか」
染井は携帯と財布と飲み物だけ持ってゴール地点に向かう事にした。
するとカバンの中にあった携帯に着信がある事に気付いた。
着信は早川からだった。滅多に女性からの着信が無い染井は柄にもなくドギマギして電話をかけてみた。
『もしもし』
早川はすぐに電話に出たので安心したが、その口調に何かいつもと違う空気を感じ、嫌な予感が背中に走った。
「なんか、ありました?」
質問すると少し間が空いた。嫌な予感は的中しそうな気配だ。
『染井さあ、同じ学年だからヒロの事って少しはわかるよね』
「ヒロ?はい。あの、ヒロが何か・・・」
やはりヒロに関する何かが起きている。ざわざわとした胸騒ぎを止める事が出来ない。
『ヒロって視力どのくらい?』
「視力・・・ですか?詳しくは知りませんけど、かなり悪いですよ」
『メガネ無しだと生活に影響あるくらい悪い?』
「生活どころか歩くのも大変なんじゃないでしょうか。前にメガネを忘れて、教科書の文字が見えなくて教科書にピッタリくっついて読んでましたもん。まるでジジイ・・・」
そこまで言って、やっと染井にも事態の予想がついた。
「まさか、ヒロのヤツ」
『中継する時に、慌ててメガネを落として走りだしたのよ』
「う、嘘でしょ・・・」
染井は立ちくらみをした。視力はいいはずなのに、世界が何も見えなくなった気がした。
牧野と一緒に六区の中継所にいた一色の携帯が鳴ったのは、それから三分後の事だった。
真横で先輩の牧野がウォーミングアップで体を動かしているのに自分が携帯なんか出ていいのかとアタフタする一色に、牧野は「早く出ろよ」とバッサリと言う。
「も、もしもし」
電話の相手は早川だった。クールな早川の着信なだけに一色のもしもしは全部裏声になった。
『何のモノマネよ』
「い、いえ・・・」
『牧野いる?代わって』
言われて一色は携帯を牧野に渡した。
「なんだよ早川。もうすぐ出番なんだけど」
早く切りたそうな牧野だったけど、早川の説明を聞いているうちに顔色が変わった。
「何してんだヒロのヤツ・・・。あいつ、中継所まで辿り着けるのか?」
『わからないよ。それより来たら大きく手を振ってアピールしてよ。ヒロはきっと、中継所にたくさんいる選手の中で牧野を見分けられないと思うから』
「く・・・余計な心配事を・・・」
牧野が早川との電話を切ると、アナウンスが流れた。
『先頭、平和島第二高校来ます。そのすぐ後、葛西臨海高校、来ます』
当のヒロはというと凄まじい疲労感の中、3キロのうち2.2キロを走り過ぎたところだった。
ぼやーっと歪んだ景色の中を自分の早さもよくわからず、ただただ必死に走っていく。
最初、スタートした直後は、緊張から涙でも出ていて景色が見えないのかと思った。
しかしどうにも景色が見えなすぎるので、メガネの位置を直そうと右手を顔にもっていくと、メガネが無い事に気付いた。
ヤバイ!とパニックになるが、もう一分は走っていたので戻るわけにも行かず、とにかく道路の色をした部分を走る事に徹した。
いくら視力が悪くても道路がどこなのかはわかる。カーブしていようとも交差点を曲がる事になろうとも、コースの下見をしていたのでなんとなく進めた。
ただ、自分のペースが全くわからなかった。
腕時計で確認しようにも、目もとまで時計を近づけても、腕が揺れてどうにも見えない。
「おーーー!!」
思わず叫び、とにかく全力で前へ進む事にした。
かなり息も切れ、腕も足も動きが乱れてきたが、もしかしたら遅いペースなのかもしれないという恐怖感から、とにかく足を前へと突き出した。
すでに肩でぜえぜえと息をしているし、そこまで悪いペースではないと思うが、景色が見えないのでは確信が持てなかった。
気配で、何人かの選手に抜かれた感覚はあったが、逆に追い抜いた感覚もあった。
15位辺りの高順位で抜かせる選手がいるとは思えないヒロだったけど、何が何だかわからない中で走ったので、周りに左右される事は無かった。
ヒロが唯一確信持って考えていたのは「次回はメガネに紐をつけて落ちない様にしておこう」という事だけだった。
やがて、前方から大きな歓声が聞こえてきた。
顔を向けると、灰色の道路の途中に色んなカラーのうごめく物体が見えた。
中継所だと確信し、タスキを肩からはずした。
しかしここでさらなる恐怖感がヒロを襲った。
中継所でスタンバイしている人間が、何人かいるのだ。
それも多摩境高校の空色ユニフォームと似たブルー系のユニフォームが数人いる。
「ど、どれ?」
思わずスピードを緩めそうになる。
その時、一番左にいた選手が叫んだ。
「ヒロ!!こっちだ!!左ハジだ!!」
間違いなく牧野の声だった。
思わず目に涙が浮かんだ。
ヒロは思い切りタスキを前へ突き出し大声を出した。
「受け取ってください!!」
「おう!!よくやった!!」
タスキがヒロの手からスルリと引っこ抜かれて行く感覚があった。
空色ユニフォームは風の様に消え去った。
「ったくよー」
走りだした牧野はヒロの文句をブツブツ言いながら前を向いた。
「意外と早かったじゃねーか」
順位は当初の予想通り、ヒロの区間で落ちた。
現在17位だ。しかしヒロが予想以上に粘ったせいか、すぐ前には四人の集団がいた。
「お前らがヒロを抜かしたヤツらだな」
牧野はそれらの四人を軽々と抜き去って行く。
その前にはポツポツと選手が見えていた。
「番狂わせか」
ヒロが走った五区の3キロの間には短くても色々なドラマがあった。
信じられない出来事というのも駅伝では存在する。
優勝候補のチームのエースが突然の故障でリタイアしたり、脱水症状でフラフラと歩いたり、全く無名の選手がごぼう抜きにしたりする。
それが五区で起きた。
誰もが予想していなかった信じられない出来事が。
それは一歩間違えば、ヒロが起こしていたものであり、ヒロがそういう状態にならずにタスキを繋ぐ事が出来たのは事前の下見と強運としか言いようがなかった。
そう、強豪高校の大ブレーキがあったのだ。
三位で走っていた松梨大学付属高校の五区担当の一年生がそれを起こした。
残り1キロくらいで右足を痙攣させてしまったのだ。
準備運動が足りなかったのか、水分が足りなかったのか、それは不明だけど、きちんと周りはサポートしていなかったのだろうかと心配になる。
彼はそれでも走った。一気にペースダウンをしたが、それでも中継所を目指した。
強豪高校である松梨で駅伝のメンバーに選ばれるのは並大抵の努力ではなかったんだと思う。
そのド根性が、リタイアをせずに走り切る精神力へと繋がった。
得意の3000mの区間を自ら名乗り、走ったという責任感もあったのかもしれない。
次々と抜かれていく中、涙を流しながらも彼は六区の駿河二海へとタスキを繋いだ。
3位から一気に16位へと順位を下げたが、駿河は「下剋上ってのも面白い」と言い、すぐに目の前にいた四人を抜き去った。
しかし、ほぼ同じタイミングで、その四人を抜いて追いかけてきた選手がいた。
それが牧野だった。
牧野と駿河は、並走したまま前を向いた。
すぐ前には葉桜高校の内村一志が走っていて、後ろを振り返り「ち」と舌打ちしたところだった。
五区通過順位
1位 平和島第二高校
2位 葛西臨海高校
10位 落川学園高校
11位 葉桜高校
16位 松梨大学付属高校
17位 多摩境高校(好野博一・ヒロ)
29位 稲城林業高校
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コメント
眼鏡かける選手は試合の時は外す人も多いですね!kenchanは試合の時は裸で走りたいくらい何も身につけたくないタイプのようです
監督やチームの間では、パワーバランスというリストバンドが流行っていますが煩わしいようで、買ってあげたけど公式戦などでは外すように言われ、やはり生身の体ひとつで勝負です
投稿: kenchan-kouchan | 2010年12月17日 (金) 03時39分
こんにちは!Kenchan-kouchanさん!
試合の時だけコンタクトっていう友人がいました。スポーツ選手はメガネがなにかとジャマになる時がありますよね。
リストバンドですか!陸上部って妙に流行りがあるんですよね!誰か一人がテーピングに詳しいと部員みんながテーピングしてたり。磁力のネックレスしてたり。
でもやはり最後は自分の身体を信じて走るのみです。来年はcafetime本人も少し運動を再開してみようかと思います。
投稿: cafetime | 2010年12月17日 (金) 16時58分