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2010年12月23日 (木)

空の下で-虹(19) 相原英太

東京高校駅伝の最後の中継所の真横で、僕は五月先生と二人で体を動かしていた。

「先生までやんなくてもいいのに」

僕が笑うと五月先生は「じっとしてられなくてな」と固い表情をした。

ほんの一分前、未華から五月先生に電話があった。

『今、せ・・・、牧野くんが11位で通過しました。松梨付属の一つ後ろです。8位で走る調布ヶ丘高校とは45秒くらい離れてます!』

「45秒・・・か」

五月先生は難しい顔をして電話を切って僕に言った。

「相原。今、牧野は全員の想いを乗せて必死で走ってる。きっと多摩境高校の歴史に残る伝説的な走りを見せている。松梨付属とも互角に渡り合っている」

「はい」

「名高が同着ながら区間賞を獲り、染井がトップクラスで繋ぎ、大山、剛塚、ヒロがしっかりと高順位をそれほど落とさずに走り切り、今は牧野がお前をめがけて来る」

「はい」

「それでも、相原だけで45秒の差をひっくり返して関東に行くのは、もはや難しい状況だ。スマンがそれは先生の責任だ。お前らの力を今日までに全て引き出す事が出来なかったのかもしれない」

「いや、先生は・・・」

五月先生は両手で僕の肩をガシッと掴んだ。

「だが相原。一瞬たりともあきらめるんじゃないぞ」

先生の手のひらには力がこもっていた。

「このチームの力を引き出したのは、もしかしたらお前なのかもしれない。三年近く一緒にいて何度も何度もそう感じた。名高だけが凄かったこのチームを、お前が引き上げたんだ。牧野も、大山も、剛塚も、染井もヒロも。お前がいたからここまで来れたんだ」

先生は手を離して一呼吸置いた。

「だから最後まであきらめないでくれ。あきらめなければ・・・、きっと関東へ行ける。松梨にも勝てる。そしてそれは、今までにない景色をお前らが見れるという事だ。その景色は・・・。お前らにしか見る事が出来ない特別なものだ」

僕はさっきまでより大きな声で「はい!」と返事をした。

先生はここで久しぶりに笑みを見せた。

「ゴールする最後の最後まで楽しませてくれよ。先生はもう自転車でゴール地点に行ってるからな」

そう言って僕の背中をバンバンと二回叩き、五月先生は歩いて行った。

「素敵な先生だよね」

横で聞いたいたらしい、くるみがやってきた。

「うん。あの先生に出会えて良かった」

二人で五月先生の後ろ姿を見送り、僕はジャージを脱いでくるみに渡した。

すでに1位の葛西臨海高校と2位の平和島第二高校は激しいデットヒートを繰り返しながら通過している。

3位、4位も通過したので、いよいよ僕らの出番も近い。

7位の高校が準備している時、ついにそのアナウンスは流れた。

『落川学園、多摩境、松梨付属。準備してください』

僕はくるみの方を見た。

くるみは頷き、僕も頷いた。

「行ってくる」

「気をつけてね」

くるみらしい言葉で僕の背中を押してくれた。

 

 

中継ラインの横に立つと、8位の調布ヶ丘高校が通過したところだった。

最近メキメキと力を付けて来たという噂の高校だ。

彼らを越えないと、関東大会へ行く事は出来ないという状況なので、その白いユニフォームを記憶した。

それとは間逆の黒いユニフォームの選手が僕の右に立つ。落川学園の選手だ。

左には松梨の香澄圭が現れて垂直にリズミカルに飛んでいる。

まず来たのは落川学園だ。これほどの順位で落川が来るとは誰が予想しただろうか。黒い弾丸の様に走って来て、9位で中継した。

そしてすぐに僕と香澄がライン上に並ぶ。

視界には牧野の姿と、その10秒ほど後ろに駿河の姿が見える。

「すぐだ。すぐに追いついてやるから」

香澄が僕の方を見もしないで呟いた。

「やだよ。絶対逃げ切る」

「追いつく」

「逃げ切る」

僕が香澄を見ると、香澄の表情は強張っていた。

いつもの余裕そうな表情ではない。やはりこの時点で11位という事で、12年連続関東出場中の松梨としては、相当なプレッシャーなんだろうと思う。

「牧野くーん!!ファイトー!!」

くるみの声で我に返り、牧野を見る。牧野は鬼の形相だ。両手でタスキを前に差しだした。

「英太ーーー!!!」

僕はタスキの真ん中を掴み、すぐに駆けだした。

「行けーーー!!」

「おう!!」

牧野の叫びが僕を押し出すかの様にスタートを切った。

10位での中継だ。少し前にいる落川学園と、数十秒前を行く調布ヶ丘を抜けば、大それた目標である関東に行けるんだ。

タスキを肩からかけて、わざと重みをかみしめる。

そしてギラリと目を光らせる様に前を睨んだ。

落川の選手の背中は確実に見える。でも、慌ててはいけない。

これほど高順位で来るチームの最終走者が簡単に抜かしてくれるわけがない。

おまけに相手は落川学園だ。妨害行為だって有り得る。

走りながら今日の調子を確認する。

体は重くないか?腕や足に異常は感じないか?妙に高揚してペースが乱れていないか?

・・・・・・。

大丈夫だ。全てが快調だ。何も問題は無い。つまり・・・、全力を尽くせる。

「は、は」

リズムよく呼吸を繰り返し走る。まずは最初の1キロだ。変なタイムじゃなければいいけど。

1キロの標識の横を通過する瞬間に腕時計を確認する。

想定していたタイムより1秒早い。うん、なんて快調な走り。

それに、もう最終区だから、選手が入り乱れて走りにくいなんて状況は無い。

なんて・・・、なんて、楽しいレースなんだ。

そして、落川学園の選手はすぐ目の前というところまで追いついた。

でも油断は大敵だ。今まで何度となく落川学園には苦労させられてきた。

真横を抜くのではなく、少し距離を置いて抜き去る。

人で言うと三人分くらい空間を作って落川学園の選手をゆっくりと抜いた。

何かしかけてくる様子も無い。

「わざわざ空間サンキュー!!」

二人の間を後ろから香澄圭が追いついてきた。

落川の選手を抜き、僕の横に並んだ。

「香澄・・・!!」

しかし香澄は僕の前に出る事はなく、並走した。

かなり息切れをしている。

多分だけど、僕や落川学園に早めに追いつくために、少し無理して来たんだろう。

いつもの綺麗なフォームに少しだけ乱れが出ていた。

これより前には調布ヶ丘高校がいるのだけど、まだ差がかなりあり、選手の姿が小さく確認出来る程度だ。

残りは3キロほど。香澄は僕と並走して少し落ち着き、また調布ヶ丘めがけて飛ばす気だろう。

まさか最後の試合で、一番嫌な相手である香澄圭と並走するだなんて思わなかった。

香澄とは出会い方からして特別だった。

夜に一人で練習していたら、同じ道を走っていたのが香澄だったんだ。

最初は女性かと間違えた程の、華奢な体と長いポニーテール。

それまで他校のライバルといえば内村一志だったけど、香澄圭の登場以来、僕はずっとこいつの背中を追って走ってきた。

ただ、未だに一度も勝利した事は無い。

最後くらいは・・・。そう思っていると、香澄が僕より前へと出だした。

着いて行くか?

しかし少しペースが早すぎやしないだろうか。

でも、もし香澄がこのまま走り去れば、もう二度と香澄を追う機会は無い。

高校で陸上を辞める僕には、香澄に負けたままで終了という事になる。

それに何より、もし香澄が調布ヶ丘を抜いた場合はどうなる?

大体・・・、松梨付属に勝つという目標はどうなる。

今ここで、順位を落とすわけにはいかないんだ。

「くそ」

僕は香澄の後ろについたが、やはり香澄の早さに着いて行く事は出来なかった。

多少乱れてはいるが、香澄にはまだ余力が感じられる。

力の差がある・・・。

「くそ!!!」

悔しくて、思わず声が漏れた。

名高が、染井が、大山が、剛塚が、ヒロが、牧野が繋いできたこのタスキを・・・、関東に持っていく事は出来ないのか!!

オチツイテ・・・

耳の奥にかすかに何か聞こえた。

ガンバッテ・・・

誰だ?誰の声だ。

思わず沿道に目をやる。

高速で過ぎ去る景色の中に、今までに試合で見た事の無い顔が見えた気がした。

大勢の観客の中に混じって、声を張り上げるでもなく、ただ祈る様に呟く姿を。

「お母さん?」

そんなハズは無い。三年間一度も試合の応援なんて来てくれた事なんて無いんだ。

僕が吹奏楽を辞めて陸上部に入った時から、お母さんは僕の部活に興味を無くしていたのは明らかだった。

来るはずが無い。きっとお母さんは僕が音楽を辞める事に反対だったはずなんだから。

でも今日の朝ゴハンを思い出す。

いつの間にか勉強したと思われる、試合当日にもってこいのメニューを。

オチツイテ・・・

落ち着いて、と言ったのか?

前を見れば、すでに香澄は少し離れたところを走っていて、そのさらに前には調布ヶ丘の選手がさっきより大きく見える。

現在順位は10位。残り2キロ少し。どう考えても焦るこの場面だが、落ち着いて行けというのだ。

どんなスポーツでも焦りは余計な力を生み、ミスや怪我に繋がる。

それを伝えたかったんだろうか。いや、ここにお母さんがいるのかすらわからないけど。

まあ、物は試しだ。

久々に・・・

実に二年ぶりに、僕は走りながら目を閉じた。

一瞬で色々な事が思い出される。

雪沢先輩の勧誘・・・、牧野との仮入部・・・、未華との出会い・・・、大山のカバン持ち事件・・・、穴川先輩との不仲・・・、名高を追った山中湖・・・、たくみの中距離転向・・・、剛塚と五月先生の因縁・・・、生意気な染井の入部・・・、成長しないヒロ・・・、振りまわされた早川と柏木の関係・・・、昔の自分みたいな一色・・・、そして、大好きなくるみ。

仲間。

なんだ、全て仲間の話だ。

全ては仲間と一緒に過ごした出来事だったんだ!

カッと目を開け、覚悟をする。

目を閉じていたのはほんの一瞬だったけれど、心の力がさっきまでとは違った。

一緒に過ごした仲間達と自分のため、今ここで、全ての力を振り絞り、ゴールを目指す!

もう、今日で出し尽くしてしまえ。

僕は徐々に徐々にペースを上げて行った。

後半に強い、とよく言われた。

だから一気に上げる事はしなかった。

少しずつだ。少しずつ上げて行けばいい。焦る必要は無い。

気付くと、少し前で香澄が調布ヶ丘の選手を抜くところだった。

8位が松梨、9位が調布ヶ丘、10位が僕らという順位で、残りは1キロくらいだ。

後ろには気配は感じなかった。

振り向いたわけではないが、落川学園とかが追ってくる様子は無い。

つまり、調布ヶ丘を抜き、松梨の香澄圭を抜けば、関東だ。

「はあ!!はあ!!」

そろそろ息もキツクなってきたけど、もう出し惜しみは必要ない。

ラスト1キロの僕の力を見せてやる!

ほんのちょっとずつ調布ヶ丘の選手が近くなってくる。

確か40秒ほどの差があったはずだけど、これは追いつけそうだ。

調布ヶ丘の選手に並ぶと、その選手は苦しそうな表情で僕をチラリと見た。

彼だって必死なんだろうけど、僕だって譲るわけにはいかないんだ。

僕は数秒並んだだけで、すぐに前へ出た。

調布ヶ丘の選手は追ってくる事はなかった。

「香澄・・・!!」

香澄圭は一度はかなり前へと離れていたけど、今は5、6秒前を走っていた。

しかし残りは500m少しだろう。

この距離で5、6秒は厳しい!

段々とゴールが近づき声援も大きくなってきた。

香澄より前には誰の気配も無い。後ろの調布ヶ丘や落川学園も追ってくる様子は無い。

香澄が8位、僕が9位という、どちらかが関東に行き、どちらかが姿を消すという状況になった。

交差点を左に直角に曲がる。

ここを曲がると残りはトラック1週分、つまり400mだと言われていた。

そのコーナーを利用して、香澄は僕の姿に気付いた。

ぎょっとした表情をして曲がり切った後、気合いの雄たけびを挙げた。

「はあ!!」

ポニーテールを大きく揺らしながらラストスパートをかけたのだ。

まだ、そんな力が?!

「う、お、お、お、おおお!!」

僕も小さく声を漏らしながら出来る限りを尽くして足を出した。

遠くにゴールが見えて来た。駅伝の終了地点であり、僕の目標地点だ。

まるで短距離走かの様に後先考えずにただ走る。

右足、左足、右足、左足。

香澄圭は僕の右前方を走っている。もうフォームは綺麗でもなんでもない。ただ必死さを感じる。

ゴールラインが急速に近づいてくる。

声援が大きくなる。

「英太ー!!」「香澄ーー!!」

悲鳴に近い声が前方から聞こえてくる。

「多摩境!!!」「松梨!!!」

喉が痛い。

顔が歪む。

息と共に情けない声が出る。

知らない。

見た目なんか知らない。

掴め。 

掴むんだ、この手で。

関東へのキップを。

松梨からの勝利を。

多摩境高校陸上部という名の・・・誇りを。

香澄はまだほんの少し右前だ。

なんてヤツだ。

ゴールが近い。

みんなが見える。

名高!牧野!大山!剛塚!染井!ヒロ!たくみ!一色!未華!早川!くるみ!五月先生!

みんないる!他にもみんな、みんないる!!

待ってて!今、行くから!!

今、そこに、辿り着くから!!

何か左足にピリリと変な感触がしたけど、もういいや。

走り切る。

走り切る!!

ゴールラインはすぐそこだ。

「うおおおあああ!!」

跨いだ!

叫びながらゴールラインを跨いだ!!

崩れる様にして転がり込む。

倒れた僕の顔に上からタオルがかけられたが、すぐにどかして歪んだ顔のままで香澄がいた方向を見た。

香澄も歪んだ顔で一緒に倒れていた。

どっちだ?

どっちが先にゴールしたんだ。

香澄を取り囲んだ松梨の選手達が大粒の涙を流していた。

ハッと気づくと僕の周りにもみんなが集まっていた。

みんな・・・

みんな泣いてる。

未華、くるみ、早川が大泣きしている。

牧野や剛塚が何かを叫び、大山とヒロが顔をぐしゃぐしゃにして涙と鼻水を流し、一色が「相原先輩!」とだけ繰り返し、名高と染井はグッと握手を交わしていた。

五月先生が僕の上体をゆっくりと起こしてくれた。

「相原、お前・・・」

その五月先生の声は震えていて、目には涙が浮かんでいた。

「はあ!!はあ!!せ、先生、ぼ、僕らは・・・」

「八位だ」

「え?」

「よくやった!関東進出だ!」

その言葉を聞き、あっという間に景色が何も見えなくなった。

涙で何も見えないんだと気付くのに時間がかかった。

「英太!!」

牧野が上体だけ起こしている僕に手を差し伸べた。

「牧野ぉ・・・」

僕は牧野の手を掴み、立ち上がった。

泣き顔、笑い顔入り乱れ、みんなで抱き合った。

声が枯れるまで叫んだ。

これか・・・

これが僕らにしか見えない景色か。

良かった。本当に。

僕はこの仲間に出会えて良かった。

この陸上部に入って良かった。

手に入れたのは今日の勝利だけじゃなかった。

手に入れたのは、一生忘れる事の出来ないこの景色と、心から喜びを分かち合える仲間だ。

「英太!」

牧野が僕の名を呼んだ。みんなが牧野の方を向く。

「行くか」

牧野が何を言っているのか、一瞬でみんなが理解した。

「関東へ?」

大山が上ずった声で聞くと牧野は頷いた。

「もちろん!行くぞみんな!!」

牧野がそう叫ぶと、僕もみんなも何の合図もなく腕を振り上げ叫んだ。

「おう!!」

力強い声は、駅伝の道に響き渡り、空へと消えて行った。

 

 

 

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コメント

英太くん!お母さんの声援…きっと試合を観にいらしていたはず…


彼らにしか見えない景色…感動をありがとう

投稿: kenchan-kouchan | 2010年12月23日 (木) 21時18分

応援ありがとうございます!
 
あと二回で終了ですが、英太がここまで到達してくれて作者なのに嬉しいです。

投稿: cafetime | 2010年12月25日 (土) 16時42分

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