空の下で-風(1) 旅立ちの日に「前編」
その日、家の玄関を出ると、不思議な感覚に襲われた。
いつもと何か違う空気が辺りに漂っていたんだ。
それが何なのか?すぐにわかった。
「春だ・・・」
思わず呟いてしまうくらい、昨日までとは違う空気が流れていたんだ。
暖かくて懐かしい匂いの風が吹いている。
つい先週まで雪が降っていたのが嘘の様な日差しが僕を照らしていた。
「ちょっと、何ぼーっとしてんの。遅刻するわよ」
開けっぱなしの玄関の中から母親が白けた口調で言った。
「今、行くってば」
「ちゃんとしなさいよ英太。今日は先輩の卒業式でしょ」
「うん、そうだよね。ちゃんとしてくる」
僕は玄関をほったらかして駆けだした。
そうだ。今日、三月五日は、多摩境高校では卒業式が行われる日だ。
空の下で 3rd season-2
風の部
校門には見慣れない立て看板が置かれていた。
『平成○○年度 東京都立多摩境高等学校 卒業式』
達筆な字で堂々と書かれているが、端の方に誰かのイタズラで『おめでと~♡』とピンクで書かれていた。
式には僕ら二年生も出席する。在校生からの挨拶と、送る合唱、吹奏学部の演奏が予定されているのだ。
「おう、相原じゃねーか」
校門から校舎へと歩いていると、前にいた男子生徒の集団からのうちの一人が声をかけてきた。
少し痩せた体型で坊主頭が特徴の男だ。
「あ、穴川先輩。久しぶりです」
去年まで陸上部で一緒に走っていた穴川先輩だった。
東京高校駅伝で引退してから、穴川先輩に会うのは初めてだった。
前よりか少しふっくらとした気がする。やっぱり走るのをやめてお肉がついたみたいだ。
「久しぶりだな相原。まだちゃんと走ってるか?」
「もちろんです。牧野が部長になったから任せておけませんし」
「おおー、言う様になったな」
穴川先輩は楽しそうに笑った。
でもすぐに真顔になった。思わずドキリとする。
「オレは相原達に任せたからな。完全に」
「え?は、はい」
「頼むぜ。陸上部を」
いつになく真剣な目でそう言われ、僕は目を逸らしそうになったけど、何とか耐えて返事をした。
「はい!」
それを聞くと穴川先輩は遠くを見た。どうやら校庭の方を見ているらしい。
「オレはさ。あんまりいい先輩じゃあ無かったからな。偉そうな事は言えないんだけどよ」
「そんな事無いです。穴川先輩のおかげで必死になった時もあります」
「お前、社交辞令うまくなるよ」
「は、はあ・・・」
「まあとにかくだ。引退したオレが思うんだけどよ。いい場所だったよ、陸上部って。そんな陸上部がよ、ずっと続いていくようによ、まあなんだ、逃げずに頑張ってくれよ」
穴川先輩は校庭の方を見たまま話していた。
まるで、校庭で走っていた昔の自分を見ているかの様だ。
「穴川先輩は卒業してどうするんでしたっけ」
「家業を継ぐ」
「家業?工場とかでしたっけ」
「寿司屋だ、寿司屋。どっから工場の話が出てきたんだよ。築地直送の穴川寿司ってんだよ。調布駅から歩いて行けるからよ。いつか来てくれよ。タマゴくらいタダにしてやるから」
「タマゴだけですかー」
僕と穴川先輩はそこで笑い会った。
「じゃあな、お前に会えてよかったぜ」
そう言って穴川先輩は僕の肩をポンと叩き、仲間の元へと歩いて行った。
僕はその後ろ姿にお辞儀をした。
言葉にはしなかったけど、ありがとうございます、と心で思った。
それから教室で未華や剛塚と一緒になり、二年生全体で体育館へと向かった。
広い体育館の前の方に三年生が座り、その後ろに二年生、その後ろに保護者席が用意されていた。
正面には仰々しい演台が置かれていて、これまた仰々しい花が右手に佇んでいた。
三年生の席の左右には教師の席や来賓の席が置かれていて、そこに陸上部の五月先生もいたのだけど、見慣れないスーツ姿なので未華と二人でクスクスと笑ってしまった。
「お前ら、卒業式くらいビシッとしろよ」
剛塚にそんな事を言われ、恥ずかしくなった。
剛塚って、不良だったせいか、こういう場ではキッチリとする。オンとオフの切り替えが凄いんだよね。
しばらくすると演台の左手にあるスタンドマイクのところに、先生が現れた。
何か言っているがよく聞こえない。途中で気付いたらしい別の先生がマイクのスイッチを入れる。
「あー、ゴホン。それでは、ただ今より、東京都立多摩境高等学校、第二期生の卒業式を執り行います」
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