1-3.空の下で-夏

2008年7月22日 (火)

空の下で45.合宿(その1)

遅れていた梅雨明け宣言が関東地方にもやっと出され本格的に夏になった。

ぼく、相原英太の所属する陸上部も期末テスト翌日から練習が再開され、わずか数日練習しただけで夏バテしそうになった。

なんといっても暑くて走るスピードを上げる気力が起きにくいし、体力の消耗が早い。

みんな帽子をかぶって日射病にだけは気をつけているんだけど、毎年、全国で部活中に倒れる生徒はゼロにはならない。

そんな暑い季節の練習を数日して、ぼくらの陸上部は夏合宿へと入る。

合宿と聞いてぼくは旅行気分だった。修学旅行みたいな感じ。

でもまさか、あんなにキツイとは、予想してなかった・・・。

 

空の下で ~夏の部~ 

 

7月28日。

朝起きると、全身から汗が噴き出していた。

やっぱり今日も朝から暑い。

冷蔵庫の中にあるポカリスエットを飲む。

「かー、うまいー」

風呂上がりにビールを飲むオヤジ口調で言ってしまった。

ちなみにぼくはアクエリアスよりポカリスエット派だ。

「英太、ちゃんと準備は出来てるの?」

早起きな母親が朝のワイドショー見ながら聞いてきた。

テレビの左上の時刻は05:26だ。

「うん、一応昨日のうちに合宿の荷物はカバンに入れたよ」

「ふーん、一応ね」

母親はあまり興味もなさそうに言った。

朝早すぎてゴハン食べる気力が出なかったので、バナナとヨーグルトだけ食べて出発する事にした。

「じゃあ行ってくるね。31日の夜に帰ってくるから」

「気をつけてね。マクラ投げとかしちゃダメよ」

「修学旅行じゃないっての・・・」

「あと、山中湖のお土産はキチンと買ってくるのよ」

「わかってるって」

「お父さん分もね」

「お父さん??」

「そう。よろしくね」

ぼくの父親は単身赴任で名古屋にいる。

合宿が終わる31日に父親はこの家に来てるってことだろうか。

そういえば父親はぼくが吹奏楽やめて陸上部に入ってることをどう思ってるんだろ。

とにかく、今は重いカバンを持って家を出た。

 

 

朝7時10分。

重い荷物でフラフラしながら多摩境駅から学校まで歩くと、もう練習後みたいな汗の量だったので合宿なんて行かなくてもいいんじゃないかと思った。

この道を歩いている間、ずっと、ある音が響いていた。 

多摩境高校のすぐ近くには公園やら森やらが多いのでセミの鳴き声がハンパじゃない。うるさくて頭痛がしそうな感じだ。

 

 

学校に着くと部室の前に一台のマイクロバスが止まっていた。

陸上部は短距離も長距離も含めて25人いるんだけど、全員このマイクロバスに乗って山中湖に向かうわけだ。

バスの周りには、もうみんなが集合しつつあって、短距離の顧問である志田先生が点呼をとっていた。やっぱり修学旅行っぽい。

「おはようございます」

「おー、相原か。おはよう。どうだ相原、このバス」

志田先生はバスを眺めてそう言った。

「どうだって・・・何がですか」

「バスだよ、バス。なんかテレビ撮影のロケバスっぽいだろー。先生が知り合いのレンタカー屋でタダで借りてきたんだ。すごいだろ」

「は、はあ・・・」

「なんだか反応が薄いな相原。だから長距離チームは嫌なんだよ」

「え・・・すいません」

こんなことで長距離チーム全体のイメージを下げられても困る。

前から志田先生はあまり長距離チームをよく思ってないっぽい。

と、たくみが言っていた。

たくみのことだから多分「志田先生って長距離きらいなんですか」とか質問したに違いない。

 

「よーし、全員集合したなー。じゃあ、バスに乗り込めー。途中、休憩をとるけど1時間半くらいは走りっぱなしだからなー。トイレに行きたいヤツは今のうちに行っトイレー。なんてなー!」

誰も笑わずバスの乗り込んだ。と思ったら牧野が爆笑していた。

「ギャハハハ、先生、センスねー!」

牧野はひっぱたかれたあげく、先生の隣の席、助手席に座らされた。

「だから長距離は嫌なんだよ。問題起こすし」

志田先生はイライラした顔でそうつぶやいた。

問題起こす??

問題なんて起こしたっけ・・・。

「まあいい、行くぞもう」

志田先生の気合のない掛け声とともにバスは山中湖へと動き出した。

それは、ぼくの想像を超える厳しい戦いへの出発であった。

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2008年7月25日 (金)

空の下で46.合宿(その2)

マイクロバスは思った以上に快適だった。

MDをかけられるので、名高が持ってきた最近の曲をかけながら走行した。

冷房は入らなかったから暑いことは暑かったけど、窓を開けて入ってくる風に吹かれながら進むのは気持ちがいいし、今まで行ったこともない道の景色を見るのは楽しい。

志田先生が選んだ道は、高速道路を使わずに山中湖へと行く道で、山の中をいつまでも走る。

川が見えたり畑が見えたりして、やっぱり旅行気分だ。

 

 

二時間くらい走ったところで休憩をとることになった。

山の中の道なのに休憩とる場所なんてあるのかと疑問に思ったら、道の駅「道志」とかいうサービスエリアみたいなとこがあって、そこにバスは入った。

バスを降りると、セミの声が多摩境より爆音だということに気がついた。やっぱり深い山なんだ。

「よーし、この道の駅で30分休憩だー。30分後の10時30分に集合しろー」

志田先生がセミに負けない大きな声でそう言った。

バスから降りてやっと解放された牧野がぼくのとこにやってきた。

「いやー厳しかったー」

牧野はすでに10キロくらい走った後みたいな疲れた顔してた。

「どしたの牧野」

「いやー、志田のヤツ二時間ずっとオヤジギャクと説教だよ。ギャグ言っては説教、ギャグ言っては説教。よく短距離のやつら平気だよなー。オレなら志田を上回るコントで応酬だね」

よくわからんが、とにかく疲れたらしいので道の駅周辺を散歩することにした。

 

 

道の駅の裏手には小さな川が流れていて、小さな吊り橋がかかっていた。

その橋の真ん中で手すりに寄りかかりながら川を見た。

すんごいキレイな水だ。光る水面の向こうにちいさな魚が泳いでいる。

「はー、こんな山奥にいるとなんだか都会生活がどうでもよくなるねー」

牧野が魚を目で追いながらそうつぶやく。

「え、なんかまるで疲れたサラリーマンみたいなセリフだね。しかも僕らの住んでるとこ都会でもないし」

「英太、そういう冷めたこと言うなよ。それにツッコミたいならもっと鋭く!」

「わー、こわ・・・」

最近、牧野はお笑いのDVDをレンタルするようになってお笑いに凝ってるらしい。

そういえば中学のとき、文化祭で日比谷と漫才やってた気がする。

「それよりさ英太、聞いた?」

いきなり眉間にしわを寄せて小声になった。話題転換が早すぎる。

「な、なにを?」

「大山と剛塚って中学が一緒だったらしいよ」

「あ、そうなの?そういえばそうだっけ」

「しかもさ、剛塚って中学の時、かなりヤンチャしてたらしい」

「ヤムチャ?」

「それは飲み物だろ、もしくはドラゴンボール。違くて、ヤンチャだよ。つまり不良だったらしいんだよ。かなり暴れてたらしい」

「へえ・・・」

ぼくは遠くのベンチに一人座っている剛塚を見た。

暑くて腕をまくっているけど、その腕の太さは長距離選手とは思えないほど太くて筋肉質だ。あれで暴れられたらぼくには手に負えないだろう。

その剛塚のとこにアイスを持って大山が走っていった。

こんな山奥に来てまでパシリか・・・。

「誰に聞いたの。その話」

「穴川先輩」

なんで先輩がそんな話知ってるんだろう。

そこへ未華とくるみがやってきた。

二人はまだ私服姿だ。くるみの私服姿なんて初めて見たものだから、正直な話、その私服をチラっと観察してしまった。変態か、ぼくは・・・。

でも見ちゃうんだよね・・・。七分丈のジーパンとライトグリーンのゆったりめのTシャツかあ・・・なんて。

「なにしてんのー、二人で橋の上でたそがれちゃって」

未華はそう言って牧野の肩をはたいた。

「いって!たそがれてんじゃなくってさ。合宿に対する意気込みを語ってたんだよ」

「えー、ウソっぽーい」

「な、なにー!」

そこから牧野と未華は言い争いを始めたが、お互い楽しそうだ。

そんな二人を橋の残してぼくとくるみは散歩しだした。

「英太くん、こないだの試合早かったねー」

こないだの試合・・・。ああ多摩川ロードレース大会か。もう1か月前だ。

「最近どんどん早くなってる感じだよね。尊敬しちゃうよ」

「尊敬するほど早くないよ。まだ未華の方が早いし」

「じゃあ尊敬するのやめときます」

くるみは笑ってそう言った。

笑顔でこっちを見られると、つい目をそらしてしまう。ああ根性ないなぼくは。

いや、根性だせよ相原英太。もう一回、お茶しにいく話題をしよう。

「そういえば、前にスタバの時に約束した・・・」

そこまで言った時、志田先生の大声が聞こえた。

「そろそろ出発するぞー!」

「え、もう?」

「出発だって英太くん。バスに戻ろ」

「え、あ、うん」

 

 

マイクロバスはそこから一時間で山中湖に到着した。

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2008年8月 1日 (金)

空の下で47.合宿(その3)

バスのBGMは志田先生がラジオをつけたので高校野球の中継になった。

神奈川大会の決勝の模様を伝えている。

県大会の決勝に進むチームとなればかなりの強豪なわけで、ぼくらみたいな「さして強くもない運動部」からみると別世界の戦いだ。

それでもぼくはラジオに耳を向けていた。

攻撃時やチャンス時にかかる吹奏楽の音楽を聴いていたかったからだ。

でもラジオは突然消えて、志田先生が持ってきたナツメロに変わってしまった。

「せめて夏メロにしてよ・・・」

これは未華が不満全開の顔で言った意見。

 

 

バスは山道を抜けて平地へと降りてきた。

左にも右にもペンションやらテニスコートやらが見える。

やがてお土産物屋さんや食事処が増えてきて、ついには湖が見えた。

「おおー、ここが山中湖かー」

牧野が大声をあげた。

みんなが一斉に湖の方を見る。

バスの右側に広がった山中湖は、対岸の建物が米粒のように小さく見えるくらい大きな湖だった。

その米粒の後ろには巨大な山が見えた。

「あー!富士山だ!」

また牧野がバカデカイ声を上げた。

「おい、英太、富士山だぞ。見ろよ」

「見てるよ」

「でけー」

確かにでかい。あんな大きな山初めて見た。

いつも東京から見える山なんか問題にならない。

みんなが富士山を見上げてると雪沢先輩が戦慄の一言を放った。

「最終日は富士山を走って登るんだぞー」

「は?!」

長距離チーム全員が雪沢先輩の方向を見た。

呆然とする牧野、泣きそうな大山、ひきつり笑いの未華。

「まあ半分までしか登らないけどな」

「半分」

再び視線は富士山に集まる。

巨大な霊山はそんなことを知ってか知らずか、雲に隠れだした。

たくみが雪沢先輩に改めて聞く。

「雪沢先輩。あの、合宿ってやっぱり相当キツイんですか」

「当たり前だよ」

バカげた質問だったけど、聞きたい事ではあった。

ちょっと聞くのが怖かったから聞けなかったんだけど

さすがはたくみ。きちんと質問してくれた。合宿はキツイ。

 

 

バスは山中湖から少し離れた山の中の山荘へ到着した。

木々が生い茂る中にある、まさに山荘だ。

といってもかなり大きくて、50人くらいは泊まれるらしい。 

なので毎年ここが合宿所になってるらしい。といっても多摩境高校は三年目だけど。

入口にかかっている木製のカンバンには「見晴らし館」と書いてある。

見晴らしなんて無い。木しか見えない。

 

 

みんながバスから降りると、ふくよかなオバサンが見晴らし館から出てきた。

志田先生はオバサンを見ると挨拶をした。

「お久しぶりです大石さん。またお世話になります」

大石さんと呼ばれたオバサンは何故か屋内に走って戻って行った。

が、すぐに出てきた。手には小さな太鼓をもっていて、いきなり叫んだ。

「よーこそ見晴らし館へ!今年もがんばるんだよー!ではここで歓迎の曲をお送りします」

といってなんだか陽気なサンバを歌いだした。

ああ、これはサンバというかコーヒールンバだ。

「な、なんだこの人・・・」

牧野は圧倒されている。

未華は何故か一緒に歌っているが、他のメンツは牧野と同じ反応だ。

コーヒールンバを1曲聞いて、それぞれの部屋へと向かった。

長距離チームの部屋、短距離チームの部屋、女子の部屋の3部屋に分かれる。

ぼくら長距離チームは男は7人で同じ部屋に泊まる。

別れ際、くるみが話しかけてきた。

「なんだか面白いオバサンだったね」

「うん。陽気だったね」

「でも練習はキツそうだね。富士山とか・・・」

くるみは不安そうな顔だったので元気に言ってみた。

「きっとなんとかなるよ!」

「へえ、英太くんって楽天的なんだね」

「前向きって言ってよ。それかポジティブ」

「あ、そうか。じゃあ、がんばろうね」

そう言ってくるみは女子の部屋へ向かった。

ぼくも自分の部屋へ向かう。

なんだか旅行気分は薄れてきた。

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2008年8月 5日 (火)

空の下で48.合宿(その4)

さっきコーヒールンバを歌って出迎えてくれた大石さんは、見晴らし館に何人かいる従業員のうちの一人で、ぼくら多摩境高校の食事作りのリーダーらしい。

見晴らし館で一番大きい部屋でみんなでお昼ご飯を食べたんだけど「さ、たーんとお食べ!」なんてマンガみたいなセリフを言いながら、ごはんをせっせと作ってくれた。

今日はまだ走ってないから、あまりお腹はすいてなかったんだけど、みんなモリモリ食べていた。

ただ一人、長距離メンバーの女子、早川舞だけはゴハンを残していた。

「あらあら、もったいないねえ」

残念がる大石さんを見て少し胸が痛んだ。

早川舞ってコは同じ長距離メンバーなのにほとんど話したことはない。

未華やくるみは話してるみたいだけど、二人とは違ってガッツリ化粧してきてるし、まだ一年生なのに彼氏もいるらしいし、 いつも自分の髪の毛か携帯をイジッている、イマドキなコだ。

確か健康作りのために走っているということだったけど、そのわりにはキチンと練習に出ているという変わりダネだ。

 

 

午後からは短距離チームは近くのグラウンドに車で出掛けて行った。

ぼくら長距離チームの合宿最初の練習は・・・

「山中湖一週だ」

雪沢先輩はさわやか笑顔でそう言った。

「ここ見晴らし館を出て山下り1キロで湖に着く。そして湖を一周して山上り1キロしてココに戻ってくるってコースだ。最後が上りだからキツイぞー」

雪沢先輩はキツイぞーってところを強調して言った。

続いて穴川先輩が話す。

「先頭は雪沢が一定のペースで走るから今日はそれについてこい。できたら最後のゴールまで付いていく気持ちで走れよ」

ここで名高が久々に心臓に悪い言葉を吐いた。

「穴川先輩がついていけなかったりしてな」

「おい!」

名高にそう叫んだのはぼくだ。声が久々に裏返った。

穴川先輩と名高はにらみ合った。そして名高は嫌な笑いをして言った。

「だって穴川先輩、最近全然早くなってないじゃないですか。英太とか牧野とかみたいに全身全霊で走ってるとは思えないし」

「なんだと名高」

穴川先輩は殴りかかりそうな勢いだ。

でも名高の言うこともわかる。

穴川先輩は全力を出し切っていない。

練習が終わった後、みんな倒れこむくらい疲れてるのに、穴川先輩だけは疲れてはいるものの、すぐに帰宅開始する。

それくらい体力が残っているのだ。

「いいじゃねえかよ。試合じゃねえんだから。練習だぜ」

穴川先輩のこの言葉にはちょっとカチンと来た。

なんか文句でも言おうかと思ったところで雪沢先輩が言った。

「ま、とりあえず練習するぞ。穴川も名高も練習前にモメるな。練習も全力出せ」

ピシャリと言われ二人も黙った。

 

 

準備運動も終わり、山中湖へとスタートを切った。

まずは下り坂を1キロだ。

下りは楽だと思われがちだけど、スピードが出るから足の回転が勝手に早くなって危ないし、ある程度はスピードを殺さないといけないから、膝とかに負担がかかって故障につながりやすい。

下りが得意なのは僕らの中では、たくみと剛塚か。

たくみはスピード馴れしてるし、剛塚は筋肉がすごいので膝への負担も筋肉がガードしてくれているらしい。これは牧野談だ。

 

 

下り坂を終えると、目の前に湖が広がった。

広い。これを一周するのか・・・と、ほんの一瞬気落ちした。

その一瞬で集団から遅れそうになったけど、立ち直って集団についていく。

早くも大山が汗だくだ。

大山の大量の汗を見て未華が「うええー」と小声で言った。

その大山は何故か未華にニッコリとほほ笑んだ。

未華はすごい混乱した表情だ。目が泳いでる。

大山は誰にでもほほ笑む。勘違いするな未華。

 

 

集団は一定の速度を守り山中湖のまわりを走る。

決して早くはないので前半は広い湖を見ながら走る余裕があった。

意外にも山中湖を半分走っても誰も遅れなかった。

大山も剛塚もくるみも早川も。

みんな確実に強くなっている。4月の時点では考えられないほどに。

しかし後半にさしかかってくると、一人一人遅れていった。

たぶん、先頭でペース配分している雪沢先輩がスピードを上げたんだ。

集団は2、3分に間に一気にバラバラになった。

前へ行く雪沢先輩と名高と穴川先輩。

ぼくは一人になったが、ほんのちょい前に牧野と未華がいる。

未華はスゴイ。男子メンバーの中にいてもひけをとらない。

そんな未華のことをぼくは尊敬している。

でもやっぱり負けたくないという気持ちが強い。

目の前を先に行かれると気持ちはさらに強まる。

ぼくは一瞬目を閉じて決意を固めた。

今日こそ追いつく。

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2008年8月 8日 (金)

空の下で49.合宿(その5)

セミが爆音で鳴いている。

湖のほとりを走っているといっても、山々に囲まれたこの地区にはセミの鳴き声が響き渡っている。

音でいつもと違うのは、時折湖の上を走る水上ボートの音くらいなものだ。

そのほかはいつもと同じ音だ。

足が地面に着く音、腕を振るときに少しこすれるTシャツの音。

なによりも大きく聞こえるのはセミではなく自分の息切れの音だ。

 

 

集団がバラバラになったあと、ぼくは決意を固めてスピードを上げた。

牧野と未華に追いついたところまでは良かった。

ところがそんなぼくを見て、未華はスピードをさらに上げたのだ。

正直、信じられなかった。

とっくに限界スピードで走ってると思っていたので、ぼくは愕然とした。

愕然としたのは牧野も同じだったようだけど

鬼の形相で未華を追って行った。ぼくは少しづつだけど確実に遅れていった。

結果、ぼくの順位は何一つ変わらなかった。

 

 

スピードアップさせたのに抜けなかったというのは精神的に堪える。

もう今日はこのくらいでいいか。

そう思いながら進んだ。

気合が落ちたせいかスピードも落ちた。

それでも湖を走り切るころに、前に穴川先輩を見つけた。

ということは牧野と未華は穴川先輩を抜き去ったのか。

残るは見晴らし館への上り道1キロ。

追いつけるか・・・。でも穴川先輩との差はまだ少しある。

今日のとこはまあいいだろう。初日だし。練習だし。

練習だし・・・?

ついさっき同じようなセリフを聞いた気がした。

誰が言ってたんだっけ。

そうだ、穴川先輩が言っていたんだった。

穴川先輩と同じことを思ったのか。

でもぼくはそのセリフを聞いてカチンときていたハズだった。

手抜き練習じゃないかよ、と思って頭に来ていたんだった。

ぼくも同じじゃないか。

同じであってたまるか。じゃあ、さっきのスピードアップの決意はなんなんだよ。

「もう一度だ・・・」

つぶやいてみた。

まだ声を出す余力がある。なんだ、まだいける。

ぼくは再び目を閉じて決意を固めた。

追いつく。

目を開けて腕を大きく振って登り坂を穴川先輩めがけて走った。

 

 

ラストは見晴らし館への登り道。 

さすがにラストで登りはキツイ。

雪沢先輩の言ったとおりだったが、キツイのはみんな同じだ。

同じくキツそうな穴川先輩に一気に追いついた。

穴川先輩はギョッとしてスピードアップを図ったが、勢いに乗ったぼくは一気に穴川先輩を抜き去り、そしてそのままゴールした。

 

 

ゴールした後は倒れこんだ。

さすがに最後の登りで体力を使い果たした。

穴川先輩はゴールしてすぐぼくのところに来た。

「不意打ちしやがって」

そう言ってクールダウンを始めた。

ぼくもフラフラと立ち上がってクールダウンのためにジョックをした。

勝った。・・・やっと穴川先輩に勝った。

途中であきらめなくて良かった。

牧野と未華には負けたけど・・・。

 

 

今日のコースは全部で16キロ近くあったらしい。

すごい距離を走らせるものだと思っていたら、ジョックした後に筋トレが待っていたので涙が出そうになった。

女子は筋トレではなくストレッチだと聞かされて、女子になりたくなった。

筋トレが終わるころ、やっと大山とか早川がゴールした。

やはり16キロともなると差が激しくついてくる。

 

 

練習が終わってぼくは牧野とたくみとでお風呂に入った。

大浴場と書かれたお風呂は5、6人が入れる少しだけ大きめなお風呂で、思いっきり足を伸ばせるのがモノスゴーク気持ちいい。

普段、制服とかジャージ姿で会ってる牧野やたくみと裸でいるのは、男子同士だっていうのになんだか恥ずかしかった。

牧野は恥ずかしくもないらしく、ぼくとたくみの体をジロジロ見て言った。

「焼けたなー」

確かに日に焼けてる。それはみんな同じだ。

毎日毎日、夏の空の下で走りまくってるんだ。そりゃ焼ける。

「こーんな色黒な英太、初めて見たよー。モテるかもよ」

モテない。

だって日焼けがTシャツの形してる。

 

 

晩御飯は大石さんがスゴイ量を作っていた。

「さ、たーんとお食べ」

昼間と同じこと言ってる。 

走りつかれていたので食べるのも疲れる。でも、おいしいので食べきった。

ご飯を食べきると自由時間だ。

さっさと寝てしまいたいが、こういう風にみんなで同じ部屋にいると、やっぱり寝れないのはなんでだろう。

長距離メンバーは全員同じ部屋でゴロゴロしながらも起きている。

それに、こういう集団旅行になると必ず恋愛話をするヤツがいたりする。

そういう話ってつい最後まで聞きたくなってしまい、結果的に寝れない。 

どうやら今回は牧野が恋愛話をしたいらしい。

「オレさ、中学のときに少し気になるコがいてさー」

ほうほう、そんな話は初耳だ。

「でもさ、英太がそのコに本気だったらしくてさ。な、英太」

「は?!」

たくみが食いつく。

「マジでか。どんなコだったの、英太」

な、なにこの展開・・・

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2008年8月12日 (火)

空の下で50.合宿(その6)

長距離メンバー全員がこっちを向く。いや、先輩二人と剛塚は見てないか。

たくみは、敷いてある布団の上を歩いてぼくの横まで歩いてきて言った。

「その子どんなコだったの。かわいい系、きれい系どっち」

「かわいい系」

ぼくじゃなくて牧野が答えた。たくみは「おお」とか唸った。

「で、どうなったの。ていうか名前なんていうの」

たくみの質問好きはこういう時ホントにムカツク。

三流芸能リポーターかってんだ。

そして何故か牧野が、相手の名前を答える。

「長谷川さん」

「おお!長谷川さんかあ!いいじゃん英太。どうなったか教えてよ」

「コクッた。フラれた。」

ぼくはたくみを睨みながら言った。

言った後、そのフラれた時の状況が脳裏によぎった。

瞬間、胸が苦しくなったが、すぐに治った。

「・・・わるい」

たくみが謝った。

どうやらぼくは切なそうな顔をしていたらしい。

牧野も「スマン」と言ってきた。

みんな合宿ということもあってテンションが上がってきているらしい。

なんだか悪ふざけも多いから、今みたいな目に遭う。

でもまあ気持ちはわかる。

ぼくもあと少しで、フラれたいきさつとか話しそうになっていた。

 

 

午後十時、消灯。

大きめの和室のこの部屋に、人数分の布団を敷いて寝転がる。

ぼくの右隣には牧野、左隣には大山がいた。

山の中の建物なので部屋の電気を消すと真っ暗になる。

部屋には窓が三か所あるけれど、窓は完全に黒に染まっている。

外からは虫の鳴き声が響いてるほかは何も聞こえない。

時折、車が通る音とか、どこかでロケット花火の音が聞こえる。

ぼくは目を閉じようとした。

明日は朝練習があるらしいから早く寝た方がいい。

でも左隣の大山が話しかけてきた。

「英太くん。起きてる?」

ボソボソっとしてる。部屋が静かなので小さな声で話してきたのだ。

「ん。どうしたの」

ぼくも小声で話す。

「どうしたっていうかさ。その、えっと」

大山は視線をそらしてモゴモゴ言っている。

「なんかあるならちゃんと言ってよ」

「うん。さっき英太くん、中学の時の恋愛の話してたじゃん。気になって」

それかい!

叫びそうになった。

大山って恋愛話に食いつくようなヤツだったのか。

女の子とかに興味あるかどうかもあやしい感じだったのに・・・。それは言い過ぎか。

「フラれただけだよ。あんまり思い出させないでよ大山」

「あ、いや、そうじゃなくて。ゴメン」

大山は頭を掻いた。

「大山、何の話だよ」

「いやさ、さっき恋愛話してるとき、英太くん一瞬つらそうな顔したから・・・。話をするのを止められないで黙って見てて・・・ゴメン」

また頭を掻く。

「あ、そんなこと?いいよ大山、気にしなくて。大山のせいじゃないし。牧野のせいだよ。ほんと、中学時代の辛い記憶だっていうのにさ」

ぼくはちょっとふてくされた感じで言うと大山はニッコリと笑った。

「大山は中学んときコクッたりしなかったの」

「ん・・・。ぼくはそういうのは無いよ。女子と話すの苦手だし。それに中学のときはイジメにあっててさ」

う・・・、話が暗い方向に転がってしまった。

「イジメ・・・か」

「そう。3年間辛かったよ。何しても笑いのネタにされたり理由もなく殴られたり」

何故か笑いながら話す大山。

「お金とられたりもしたしね」

「お金?その・・・反撃とかはしなかったの?」

「うん。相手は一人じゃなくて・・・その・・・不良グループって感じでさ」

不良グループ・・・。

ぼくはちょっと離れたところに寝ている剛塚のことを思った。

いつも大山をコキ使い、カバンを持たせる剛塚。二人は同じ中学出身なはず。

「ふふ、英太くん気づいたのかな。そう、剛塚くんたちにイジメられてたんだよ」

やっぱり・・・。

そうだと思っていた。中学の時から大山は剛塚にイジメられていたのだ。

だから高校になってもイジメが少し残っているんだ。

カバン持ちが発覚して以来、ずっと思っていたことの答えがやっと出た。

それと同時に剛塚への怒りが込み上げてきた。

「英太くん、顔が怖いよ」

「え?あ、ああごめん」

「もしかして剛塚くんのこと怒ってた?」

大山ってほんとに感がいい。というか人をよく見ている。

「でもね英太くん。ぼく中学2年の頃からずっとイジメに遭ってたんだけどね。3年の卒業間際、2月くらいかな。パッタリとイジメがなくなったんだ」

「へえ」

そうとしか言えなかった。だって1年以上もイジメられてきたってことだから。

「剛塚くんがね。みんなに言ったんだ。弱い者いたぶるのはもう辞めだって。他にやることを見つけたんだって。ついていく人を見つけたんだって」

やること?ついていく人?

あの剛塚が?

一年生の中で剛塚だけは陸上部に入っている理由がよくわからない。

その理由はこの辺りにあるのだろうか。

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2008年8月15日 (金)

空の下で51.合宿(その7)

突然、何か電子音が鳴り響いた。

携帯の着信音のようなピロピロとした音だ。

目をつむっていたぼくは、その音で目を開いて驚いた。

もう朝になっていたからだ。

いつの間にか寝てたらしい。電子音は誰かが携帯で目覚ましを設定してたのだ。

「ねみー」

右隣で牧野が本当に眠そうな声でそう言った。

ぼくも眠い。なんといっても朝六時だ。ふだんはもう少し遅く起きる。

そんなぼくと牧野を見てたくみは明るい声で言った。

「なんだなんだ二人とも。まだ眠いの?だらしないなー」

たくみはスカッとした顔をしている。いつもより鼻のホクロのツヤがいい。

「早く起きろよ二人とも。朝練だぞ朝練」

たくみは幼稚園から現在まで欠席とか遅刻は一度も無いらしいけど、朝に強いってのが影響してるのかもしれない。

ぼくと牧野はノロノロと練習着に着替えだした。

眠い。気を抜くと夢の世界に逆もどりしそうだ。何の夢見てたか覚えてないけど。

 

 

朝練は見晴らし館の周りを30分ほどジョックして、五回、坂道全力ダッシュをするという軽いメニューになっているので、助かった。

といってもやはり朝は体が重い。

30分のジョックなんて普段なら誰も遅れたりしないだろうけど、10分くらいで辛くなってきて、20分も走ると集団ではなくバラバラになっていた。

それでも雪沢先輩、名高、たくみは最後までペースを乱さずに走っていた。

実力的には未華も走り切れそうなんだけど、朝は弱いらしく珍しく後ろの方で静かに走っていた。

ぼくはというと、牧野と二人でけっこう頑張ってみたんだけど、あとちょっとのとこで集団から遅れてしまい、反省だ。

それでも穴川先輩より先にゴールだ。

「やった、また勝てた!」

思わず小声でそう言ってしまった。

そこへ穴川先輩がゴールしてきて、喜ぶぼくを見つめてきた。 

「あ、お疲れ様です穴川先輩」

黙る穴川先輩。ややあってから一言つぶやいた。

「朝練ぐらいで本気になってんじゃねーよ。レースじゃねーっつーの」

そう言ってその場を去って行った。

 

 

朝練習を終えると、朝ゴハンが待っている。

今日も大石さんたち見晴らし館の従業員の人たちが食堂で食事を運んでいてくれていた。

「さ、たーんとお食べ」

朝ゴハンにしては多い。みんな苦労しながらもなんとか食べきった。

またも早川舞が少し残してはいたが。

「朝は栄養たっぷりとらないと合宿乗り切れないよー」

大石さんは笑顔でぼくらに激を飛ばした。

 

 

午前中の練習は再び山中湖一周だ。

しかも午後も山中湖一周を断行するという。正気かよ、と思った。

そのメニューは発表したとき、雪沢先輩は笑顔でこう言った。

「まあ、午後は逆回りで一周だけどな」

どっちだって一緒でしょ?

 

 

午前の一周はひとつの実験を試みてみた。

無難に走るのをやめてみようという試みだ。

牧野と相談して決めた。

それは自分の限界まで雪沢先輩についていくという走り方だ。

ゴール出来ないくらい疲れたとしてもいいから1メートルでも長く雪沢先輩についていこうという考えだ。

これは牧野が言いだしたことだった。

「四日間で何度も何度も山中湖走るんだからさ、ちょっと色々試してみない?ぶっちゃけ同じコースばっかで飽きるじゃん」

そう牧野に言われ、なんだか楽しそうだから誘いに乗ってみた。

 

 

なるべくついていくのは当たり前だが、これはぼくには不向きな作戦だった。

確かに雪沢先輩についていくのは先頭を走れるので、新しい景色が見れた気はしたけど、ついていくので全体力を使いきってしまい、一度遅れたらあとはズルズルと後退し、名高、未華、牧野に抜かれ、あげくには穴川先輩とたくみにも抜かれてゴールした。

牧野はなんと三位でゴールしたらしい。未華に勝ったと喜んでいた。

その未華は「チ」とか舌打ちしていた。怖い。

 

 

午後は逆に後ろからジワジワと抜いていく作戦で走った。

ぼくも牧野も後半になってから少しずつスピードを上げて順位を上げて行ったが、これはぼくの方が向いてるらしく、牧野は途中で伸び悩んだけど、ぼくは穴川先輩を抜いて、未華までもう一歩のとこまで迫ったけど、追いつくことはできなかった。

抜かれた穴川先輩は誰に言うでもなくつぶやいた。

「くっそ。やってらんねー」

トップ3は雪沢先輩・名高・未華という順で、未華がすごい実力なんだと改めて思い知らされた。

ちなみに午後はたくみが妙に遅れて剛塚に抜かれていた。

 

 

合宿は過酷だ。

のんびりとした風景の山中湖のほとりで、ぼくらは必死こいて走る。

今日は一日で30キロ以上走ったことになる。

人生で一番走った日になった。

そんな日の夜のことだ。事件が起きたのは。

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2008年8月19日 (火)

空の下で52.合宿(その8)

合宿も二日目の夜となり、メンバーには疲れが出てきていた。

大石さんの作るゴハンをなんとか食べきると、みんな話す気力もあまり無いらしく、大部屋に戻って静かにすごしていた。

雪沢先輩と穴川先輩は、志田先生とミーティングだとかで大部屋には戻っていないけど、一年はみんな自分の時間をすごしている。 

牧野はお笑い芸人が出した本を読んでニヤニヤしているし、大山は「あ、そうだそうだ」とか言って部屋から出ていくし、名高は目をつぶったままウォークマンで何か聴いているので、すごい静かだ。

ぼくは一学期中に吹奏楽部の日比谷から借りたCDでも聴こうかと思ってたら、たくみがぼくの横までやってきた。

「英太、英太」

「ん、なに?CD聴きたいんだけど・・・」

「つれないなー英太。おれの話聞いてくれよ」

たくみは何故か小声だ。部屋が静かなせいかもしれない。

「いま、トイレ行ってきたんだけどさ。部屋に戻るとき、大山を見かけたんだけど。あいつ、こっそりと建物から出て行ったぞ」

「え?見晴らし館から?」

もう夜八時半だ。志田先生の許可なしで宿泊施設から勝手に外出すると、さすがに怒られるのではないか。不安がよぎる。

そう思っていると大山が部屋に入ってきた。

「なんだ、いるじゃんか」

ぼくはホッとした。志田先生は長距離チームには手厳しいから連帯責任で全員が怒られるかと心配だったからだ。

ところが、大山は剛塚のところに行ってこんなことを言った。

「はい、近くの自販で売ってたよ」 

大山の手にはスポーツ飲料のペットボトルが握られていた。

剛塚は「サンキュー」と言ってペットボトルを受け取って150円を大山に渡した。

自販は外にしかない。やっぱり大山は外に出ている。

それも剛塚に頼まれて。つまりはパシリか。

そう推理していると剛塚と目があってしまった。

やばい。思わずぼくは視線をそらした。

剛塚はぼくと目があった事はほっておいてペットボトルを開けた。

正直、ホッとした。なんか剛塚にからまれたら怖いから。

ところがたくみのヤツがとんでもない事を剛塚に質問した。

「ねえ、なんで大山をパシリで使ってんの」

「ば、ばか、たくみ」

剛塚は一瞬動きが止まったあと立ち上がり、ぼくとたくみの所に歩いてきた。

「なんだって?」

剛塚は低い唸るような声でそう言った。

たくみは一歩後ろに下がったものの質問をした。

「だから大山をパシリにしてんじゃん。何で?か、かわいそうじゃん」

「なにデカイ口きいてるんだよ」

剛塚の声は大きくはないが威圧感のある低音だ。

ぼくは怖くて身動きできない。なのにたくみは得意の質問だ。

「今だって外の自販にジュース買いに行かせたんでしょ?」

「だから何だ」

「志田先生に見つかったら、多分一番怒られるのは買いに行った大山なんだからさ。買いたければ自分で行けば。大山だって疲れてるんだからさ」

たくみがこんなに仲間思いだとは意外だった。

僕はたくみの言葉を聞いてちょっと涙が出そうになった。

そのたくみは言葉を続ける。

「大山みたいに遅くたって、うちら長距離チームでは必要な仲間なんだよ。パシられて嫌になって退部したくなったらどうすんだよ。そういう風にするヤツこそ必要ないだろ」

その言葉が終わった瞬間、たくみの姿がぼくの視界から消えた。

いや、後ろに飛んだのだ。

何かと思ったら、剛塚がたくみの顔面を殴ったのだ。

たくみは鼻血を出して畳に倒れた。

剛塚は倒れたたくみに向かって言う。

「必要ないだと?誰がだよ」

たくみは鼻を押さえたまま何かを言ったが聞き取れない。

剛塚はぼくの方を見た。

「英太、おまえはどう思うんだよ。誰が必要ないって?」

「あ、いや・・・」

情けないことに何も言えなった。

たくみはあんなに言いたいことを言ったのに。

たくみが殴られたことで大山も牧野と名高もこっちを見ていたが、特に何かするわけでもなかった。

剛塚は小声で言い放った。

「もういい。出ていく」

剛塚は大部屋の外へ向かって歩き出した。

「ちょ、剛塚」

ぼくはそれだけしか言えなかった。

剛塚が部屋の出口まで進んだ時、全く場違いな明るい声を出しながら、未華が部屋に入ってきた。

「ねえみんな聞いて聞いてー!明日の夜なんだけどさー」

その未華を剛塚はジャマに思ったらしい。

未華を横に押しのいた。

未華は押された勢いで壁に肩をぶつけて痛そうな表情をした。

「いった。なにすんの・・・」

それを見た牧野は猛然と立ち上がった。

そして剛塚めがけて一直線に走りだした。

いつも練習で走るよりも早いんじゃないかという勢いだ。

その牧野の拳が握られている。

やばい。このままだとやばい。どうにかしなくちゃ。

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2008年8月22日 (金)

空の下で53.合宿(その9)

一年生の大部屋は異常な光景が広がっている。

たくみが鼻血を出しながら倒れているし、未華は肩をおさえて座り込んでいる。

それは剛塚が手をあげたせいだ。

剛塚は大部屋の入口に立っているのだが、そこへ牧野が拳を握って走り出した。

ぼくは大声を出した。

「待てって牧野!!」

牧野はその声が聞こえないかのように剛塚の顔面めがけて右拳を突き出した。

剛塚はその拳をよけたが、牧野が勢いそのまま剛塚に体当たりしたので、剛塚は大部屋の外まで吹っ飛ばされた。

ドスンという音がして剛塚が大部屋の外の壁にぶつかった。

剛塚は痛そうな顔をしたが、すぐに牧野に向かって走り出した。

ヤバイ、剛塚が戦闘モードに入った。

そう感じた。

剛塚は「フン」と唸りながら拳を繰り出した。

牧野はなんとか避けたけど、剛塚が間髪入れずに蹴りを放ったので、牧野はそれを横っ腹に受けて、崩れ落ちた。

剛塚は息を切らしながら牧野を睨んで言った。

「なんでテメエが殴りかかってくんだ。関係ないだろ」

なんでかなんてすぐわかる。

好きな女子が目の前で押しのけられて痛い目に遭ったのだ。

それで黙ってるほど牧野は半端な気持ちで未華のことを想ってるわけじゃない。

牧野が答える代わりにぼくは剛塚に言った。

「関係ないとか言うなよ」

「は?」 

怖かったけど言った。ぼくも殴られるかもしれないけど言った。

「もう四ヶ月も一緒に走ってる仲間に、関係ないとか言うなよ」

剛塚はそれで殴りかかってくるわけではなかった。

何かを考えているような顔をしたが、すぐにぼくに向かって言い放った。

「仲間とか言うなよ、気持ちワリイな。勝手にやってろよ青春ごっこ」

そこで剛塚は一息切ってから言った。

「俺はもうやめた。帰るわ。」

そして大部屋から出ようとした。

もう誰も止めようとしなかった。

たくみも、未華も、牧野も、そしてぼくも。

一人減る。それだけのことだ。運動部で途中退部なんて珍しくもなんともない。

でも何か納得いかない。これまで四ヶ月やってきたことを思うと。

それはぼくだけじゃない気がした。

たくみも牧野も未華も、剛塚を止めたいんじゃないかと思った。

でも何もできない。

そう思った時だった。大山が声を出したのは。

「最後までやろうよ」

剛塚は足を止めて大山を見た。

大山は足が震えている。

「最後ってなんだよ大山」

「と、途中でやめるなんて。に、逃げるってことでしょ?」

大山は足だけじゃなくて声まで震えている。

「剛塚くん、見つけたんじゃなかったの?やりたい事とついていきたい人。それってこの陸上部の話なんじゃないの?」

剛塚は黙って聞いていた。

「最後までちゃんとやろうよ。逃げるなんてズルイよ」 

なんで大山は自分をイジメてきた剛塚にまで優しいんだろう。

剛塚はそんな大山の優しさに気づくべきだ。

そう思っていたらぼくは再び口を開いていた。

今度は怖がらずに自然に言えた。

「こんなに必要って思われてるんだからさ・・・。一緒にやろうよ」

「必要?誰が」

剛塚は眉間にしわをよせてそう言った。

まるで何の話をしてるのかわからないって顔だ。

たくみが鼻血を押さえながら言った。

「誰がって・・・わかんないわけ?」

やっぱり質問口調だ。なんだか偉そうだ。口火を切ったのはたくみなのに。

続いて牧野が立ち上がって言った。

「剛塚がっていうわけじゃないぞ。オレたち全員がだよ。オレはそう思う。オレたち長距離チームは、なんていうか全員いてこそのチームだからよ。それに途中で辞められたら、オレ達までやる気減るだろ。迷惑だよ」

一呼吸置いて牧野は剛塚を睨みつけながら付け加えた。

「だけど女を突き飛ばすような行動は許さないけどな。オレは」

牧野はチラッと未華の方を見た。まさかカッコいいことを言いたいだけじゃ・・・。 

その未華は一瞬「ん?」という顔をしたがすぐに真顔に戻った。 

ここで初めて名高が立ち上がった。

騒ぎの間もずっと聞いていたウォークマンをはずして一言だけ言い放つ。

「逃げるってキャラじゃねーだろ」

それだけ言ってまたウォークマンをつけた。

剛塚は全員を見まわした。

名高以外はみんな剛塚を見ている。

乱闘までしたというのに不思議にも悪意とか憎悪みたいな感情がこの部屋には感じられないのはなんでだろう。

殴りかかった牧野にしてもだ。未華の心配だけをしているように感じる。

これが一緒に走ってきた一体感とでもいうのだろうか。

そんな一言では済ませたくはないけれど。感情を言葉にできない。

だいぶ沈黙が流れたあと、ようやく剛塚はつぶやいた。

「逃げねーよ。別に」

そして部屋からは出ずに、元いた場所に戻った。

その瞬間、大山はその場にへたり込んだ。

 

 

雪沢先輩と穴川先輩がミーティングから帰ってきたのはその10分ほど後だ。

すでに未華は女子部屋へと戻っていて、部屋には黙り込んだ男子のみがいた。

部屋の異常には気付かずに雪沢先輩は翌日の練習メニューの発表をした。

「明日は朝練は今日と同じなー。で、喜べ。午前練習はナシだ。休憩だ」

おおーっと名高が嬉しそうな声を出した。

「で、午後練は。山中湖二周レースだ」

「二周?!」

聞き間違いかと思うほどの衝撃だ。

一周でもきつかったのに、その二倍?

さっきまでの乱闘騒ぎも遠のいた。走り切れるんだろうか・・・。

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2008年8月26日 (火)

空の下で54.合宿(その10)

朝が来た。

もう朝かよって感じだ。まだ来るな、まだ来るな、と思いながら浅い眠りをしていたようで、ふとんから起き上がってもしばらくはぼんやりしていた。

合宿三日目の朝だ。

今日の朝練習は、昨日よりさらに体が重かった。

昨日と同じく見晴らし館近くの林道を30分走ったんだけど

みんなゆっくりペースだ。さすがに疲れが溜まってきたのか、雪沢先輩も名高もいつもよりかなり遅く走っていた。

ぼくはというと、昨日の夜の乱闘騒ぎのことを思い浮かべながら走ってたんだけど、林道の途中で巨大なクモの巣に引っかかってしまいパニックになるという、バカらしい走りをしていた。

 

 

朝練習のあとはフラフラと食堂に向かう。

席につくと大石さんが朝食を運んできてくれた。

「さ、たーんとお食べ」

大石さんたちの作るゴハンはおいしい。

おいしいけど疲れがひどくて食べきるのはしんどくなってきた。

「う・・・食べきれるかな・・・」

ぼくがそう言うと隣の牧野は「オレもうムリ、あとは頼む」とかつぶやいた。

それでもなんとか食べきった。

「おかわり!」

とか言いながら食べてるのは大山だ。

名高が「信じられない」という顔で大山の食べっぷりを見ていた。

「あれで入部の時よりだいぶ痩せてきてるってのがスゴイよな」

これはたくみのつぶやきだ。

 

 

午前中は練習がない。

じゃあ何をするかというと。

寝てた。

途中までは牧野とたくみと大山とで、たくみが持ってきたトランプで大貧民をやってたんだけど、気がついたらみんな寝てた。せっかく勝ってたのにさ・・・

熟睡してたんだけど、突然陽気なコーヒールンバが聴こえて目が覚めた。

大石さんが大部屋までやってきて歌いだしたのだ。

何かと思ったら「お昼ゴハンだよー」と大声で宣言した。

「またゴハン?!」

時計を見ると、もう昼の12時40分だ。

確か昼は12時30分とか言ってたから、みんなが食堂に来ないので歌いながら呼びに来たってことだ。

この昼ゴハンは大山しか食べきれなかった。

くるみなんか、残すのが申し訳ないらしく涙目で大石さんに謝っていた。

「泣いたって許すかよ。なあ、英太」

たくみはそう言った。確かにそうなんだけど、ちょっと心にひっかかった。

 

 

さて、午後の練習は山中湖二周だ。

これは男子だけで、女子は一周してストレッチだという。

かくして長距離男子チームはスタート地点に集まった。

山中湖は一周13キロある。

二周するということは26キロということだ。

これまで四か月の練習の中で、一度に走った距離で一番長かったのは、合宿初日にやった16キロなので、一気に10キロも記録が伸びる。

時間のことをいうと、昨日は1周するのに一時間チョイかかっていた。

ということは二時間を超える戦いになる。

それも雪沢先輩は「レース形式」と言っていた。

つまり今まで「走ったことのない距離」で「勝負」をするということだ。

正直な話、走り切る自信ってのは無い。

牧野は「これってムチャぶりだよ」と言っていた。

 

 

山中湖の湖畔にある駐車場にメンバーが集まる。

スタートの合図は志田先生が出して、車で追尾するそうだ。

午後は短距離が練習ナシらしい。

「じゃあそろそろスタートするぞ。あ、言うの忘れるとこだったけどな、半周ごとに水とアクエリアス置いておくからな。水分ちゃんと摂れよー」

この志田先生のセリフに歓声がわいた。

「助かるー」

「なんかプロ選手みてぇ」

たくみと牧野は興奮しだした。

ぼくも興奮した。カッコよくドリンクをゲットしたい。

「よし、じゃあ行くぞー」

一転して全員が集中しだした。

そういえば剛塚も何事もなかったように練習に参加している。

「逃げるようなキャラじゃないよな」昨夜の名高の言葉が蘇る。

確かに逃げるキャラじゃない。

それにやることを見つけて陸上部に入ってきたはずだ。

でも、ついていく人ってのは誰になるんだ?雪沢先輩か?

まあ理由がどうであれメンバーが減らなくてよかった。

いろいろ問題がある剛塚だけど、やっぱりここまで一緒に走ってきた仲間が一人減るのはさみしい。

そうか、ただ単にさみしいから止めに入っただけなのか?ぼくは・・・。 

「なにボーっとしてんだ相原。始まるぞ」

雪沢先輩に言われぼくは前を向いて構えた。

ちょうど志田先生がスタートの合図をするところだった。

「はい行くよ。よーい、ドン。」

意外とテンションの低い合図で山中湖二周はスタートした。

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