空の下で ~夏~ 目次
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静寂が辺りを包んだ。
心地良い静寂じゃあない。不安感のある静寂だ。
校庭のハジでぼくらはそういう空間に包まれていた。
もちろんド田舎でもないので車の音や、他の部活の人の声とかが遠くで聞こえているんだけど、ぼくの耳には今、それは入ってきていない。
たくみと五月先生の声だけが聞こえていた。
「天野、おまえ、長距離楽しいか?」
五月先生のこの質問で、たくみは固まってしまった。
いや、きっとたくみの頭の中は固まってないのかもしれない。
いろんな事が頭の中でぐるぐると駆け巡っているような気がする。
それでも口から言葉は出てこない。そんな状態なんじゃないだろうか。
静寂を破ったのは、やはり五月先生だった。それも意外な展開だった。
「相原、おまえは楽しいの?長距離」
「え?!」
イキナリぼくが質問されたので大きな裏声が出てしまった。だ、ださい・・。
五月先生は思わず噴き出した。
「相原、おまえって体育部っぽくないよなー。そんなとこが面白いんだけどさ」
「あ、はあ・・・」
「で、どうなの?楽しくないのか?」
ぼくの答えは決まっている。
「楽しいです。ぼくは走るのがすっごい楽しいんです。みんなで走りあうのが」
この「答え」は前からぼくの中にあったものだ。
でも、いざ口に出してみると恥ずかしい気もする。
「そっか。相原は楽しいか。うん、それが一番だな」
そう言って五月先生は再びたくみを見た。
「天野、答えろ」
突然ドスの聞いた声を出した。
言われたのはたくみなのに、ぼくは5センチくらい飛び上がってしまった。
やっぱ怖い先生なのか?
と、思った瞬間、五月先生は「あ!」と声を出した。
「いや、ごめん。ついケンカ口調に・・・。いや、ホント、ごめん天野。メンゴ、メンゴ。マジで。学生の頃ケンカばっかしてて・・・ごめん~」
メンゴって何だ??
とにかく五月先生はたくみに頭を下げまくって謝ってた。
すると、その行動でたくみが笑い出した。
最初は少しだけ、その後すぐに大笑いしだした。
「ギャハハッハ!!」
ぼくと五月先生は驚いてお互いを見合ってしまった。
「ど、どうした?」
「い、いえ、先生。五月先生って意味わからん人だなーって」
意味わからんのはこっちだ。なんで大笑いしてんだ。
たくみの深刻な話題につきあってるってのに。
「でも先生。今のでなんだか吹っ切れました。言います。答えを」
たくみは笑顔を抑えて先生に向きなおした。
「今、オレは長距離やっていて楽しさを感じないわけじゃないです」
たくみはチラっとぼくを見た。
「そこにいる英太とか、牧野とか、先輩たちとか、春からずっと一緒にやってきた仲間と走るのは楽しいです。でも・・・中距離はもっと楽しくやれそうな気がして・・・・だから」
たくみは一度、息をついた。
ああ、言うんだな。そう思った。
「中距離がやりたいです」
その後、たくみと五月先生は色々と話し込んだ。
持久力をつけたくて長距離に入ったこと。
思ったよりも長距離に向かなくて悩んでいたこと。
致命的だったのは合宿でみんなについていけなかったこと。
たくみの悩みを聞いた上で五月先生は言った。
「本当にやりたんなら中距離に転向しようか。800メートルや1500メートルに」
「でもうちの学校は短距離と長距離しかないですけど・・・」
「だったら中距離チームを作ればいいだけだ。志田先生と相談する」
そう言ってその場を離れようとする五月先生に、たくみは言った。
「五月先生」
「ん?」
「あ・・・いや、その・・・・ありがとうございます」
たくみにしては素直な言葉だ。それを聞いた五月先生はニヤっと笑ってから
「オレは普段よー」
と、五月先生は空を見上げてつぶやいた。
もう薄暗くなった空を。
「オレは普段よー。自分から動くことはしねぇ。でも自分の生徒のためなら、なんでもやってやんよ」
そして校舎の方へと歩いて行った。まるで不良みたいな口ぶりのセリフを残し。
部室に戻るともうみんな帰っていて、ぼくとたくみは二人で着替えた。
着替え終わって駅まで歩いて帰ってるとき、たくみがぼくに言った。
「英太、今日はサンキューな」
「え?お、おう!」
「英太がさ、ためらいもなく楽しいって宣言してるのを見てさ、オレも迷いがなくなったよ。やりたいことをやるべきだなーって」
「そ、そっかあ。じゃあ、少しは役に立てたってことかな」
「どうかなー。やっぱわかんないや」
「あ、なんだそれ急に!サンキューって言ったばっかなのに」
ぼくらは笑いながら暗くなった道を駅まで歩いた。
たくみは中距離に転向してしまう。専門分野は変わってしまう。
けどぼくらは仲間だ。一緒に走った仲間だ。笑いあえる仲間だ。
それは変わることはないんだ。
それがなんだか嬉しかった。
空の下で 夏の部「転向編」END → NEXT 秋の部「エース編」
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夏休みに比べて少しは涼しくなった多摩境の街を走る。
学校から小山内裏公園に入り、この公園内をひたすら走るというコースは
入部当時からしょっちゅう走っているコースだ。
今まではほとんど競争みたいな練習だったけど、今日は1キロ5分というタイムを設定して走る。
このタイム設定がキツイのか、楽なのかといえば楽だ。
入部当時なら話は別だけど、今のぼくらにとってはなんてことのないペースだった。
ぶっちゃけた話、少し雑談しながら走れるくらいのペースだ。
五月先生はぼくらと一緒に走っているが、集団の一番後ろについている。
そして後ろから「腕ふりー!」とか叫んだりする。
とにかく腕だけはしっかり振っていれば大丈夫な練習だ。
誰も遅れることなく走ってはいたけど、50分を過ぎると大山が遅れだした。
「コラー大山ー!オレ・・・いや、先生より先に遅れるなー!」
よく見ると五月先生はゼーゼーと荒い呼吸をしているし汗だくだ。
それでもシッカリとした足取りで走っている。
対して大山はめちゃくちゃなフォームで走りながら遅れて行った。
残り10分になり、1キロ5分ペースではなく、競争になった。
ここで前に出るのは名高と雪沢先輩なのは相変わらずだ。
それにぼく・牧野・穴川先輩が追って行き、剛塚が続く。
たくみはここで全くペースアップ出来ずに遅れた。
五月先生はというと、たくみと並走したようだ。
練習が終わると五月先生がぼくら一人一人に注意点を伝えた。
「まずは雪沢!」
雪沢先輩にも注意点があるのか。さすがは顧問なだけはある。
「もっと楽しそうに走れ」
「た、楽しそうに・・・ですか?」
さすがの雪沢先輩も困惑していた。
「そう。お前、リーダーとしての重圧もあるし、あとは駅伝が近いって気持ちからかな。なーーんかジビアに走りすぎだよ。走ることを楽しまなくちゃ」
なるほどー。
ん、それより駅伝ってなんだっけ?箱根?
「次に穴川。おまえは雪沢をもっと追わないと。後輩に抜かれそうになってから本気になったって遅すぎるよ。まあ本気になるようになっただけ進歩だけどな」
「あ、はい。すんません」
穴川先輩はボーズ頭を掻いた。
「名高」
一年生のエース、名高。態度デカイからたまには怒られてしまえ。なんて少し思う。
「おまえ、いいな。まだまだ伸びるから練習休むなよ」
あれ?注意点あんま無いじゃん。
「牧野、公園内のアップダウンが楽しそうだったな。そういや富士山も早かったらしいし。でもアップダウン無い道路で油断しすぎ。その辺ちゃんとやれ」
「ガーン!」
何故か叫んだ牧野。
「次に剛塚。おまえケンカ強いだけあって腕の筋肉すげーな。腕ふりもOKだよ。たまには相原とか牧野に追いつく気持ちで走ってみろ」
「ふん。」
剛塚は自分の腕をつかみながら五月先生を睨むように見ていた。
「それと大山。大山はねー。全部だめ。遅れるのはいいけど、遅れた時にもうあきらめてる。あきらめたら、そこで終わりだよってスラムダンクに描いてあった」
そんな昔のマンガ読まないし・・・。
「相原」
やばい。ぼくだ。何言われるかな。
「相原は腕ふりがダメだねー。それじゃ登りで遅れるよ。腕ふらないと足は動かないんだよ。まあ粘りがあって面白いけどね。相原は」
面白いって・・・。
「じゃあ今日はこれで解散!天野たくみはちょっと残るように」
五月先生のもとにたくみだけが残り、みんなは解散ということで着替えに向かった。
でもぼくは、なんだかたくみが気になって、一緒に残った。
それを見た五月先生は不思議そうにぼくを見た。
「どうした相原」
「い、いえ。たくみがどうしたんだろうと思って」
たくみがぼくを見て言う。
「英太。そんなにオレの心配しなくたっていいんだけど」
たくみはそう言うが、ぼくはやっぱり気になっていた。
「たくみさあ。せっかく今日は先生もいるんだし、相談してみたら」
「相談?」
五月先生はたくみの顔を覗き込んで言った。
「相談てなんだ?やっぱり長距離は向かなそうだって話か?」
「え・・・」
五月先生は見抜いていたのか。たくみが悩んでいることを。
「向かない・・・ですか?やっぱりオレは」
たくみはビックリした顔で五月先生に聞いた。
たくみお得意の質問なんだけど、この質問をするのは度胸がいるはずだ。
この質問で、五月先生は黙ってしまった。
二人は互いを見たまま固まる。
ややあって五月先生が仕方なくという感じで口を開いた。
「実は先生が君を呼び出した理由は、長距離を続けるかどうかという話題だ。つまりさ・・・さっきの質問と同じ内容だったって事だ」
たくみは下を向いた。
「前を向け」
五月先生は、たくみのアゴを手で持ち上げてムリヤリ前を向かせた。
その顔にズバリと聞いた。それは普段たくみがする質問のどれよりも鋭かった。
「天野、おまえ、長距離楽しいか?」
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九月に入り、真夏というより残暑の暑さが続いてた。
ぼくは九月というともう涼しいイメージがあるんだけど、やっぱりまだ暑いことは暑い。
ただ、夜は涼しかった。何故かというと関東地方は八月の終わり頃から、夕立ちで雷雨が降ることが多くなったからだと思う。
連日の雨で地面が冷え始めていた。
去年まではこんなに雷雨が多く降るとこはなかった。
最近は局地的な雷雨をゲリラ雷雨と言うらしい。
ぼくらの夏休みの練習は昼間だったので、夕方に起きるゲリラ雷雨の被害を受けることは無かったんだけれど、二学期が始まると授業の後に部活をするので、練習中にゲリラ雷雨に遭うことはありそうだ。
テレビのニュースでも、このゲリラ雷雨の話題が多い。
でもぼくらはゲリラ雷雨ではなく、「ゲリラ登場」した顧問のサツキ・リュウヘイ先生の話題で持ちきりとなっていた。
九月一日。
今日は初日ということもあって部活はない。
いきなり授業ということもなく、午前中のみで学校は終わりだ。
学校から多摩境駅までの帰り道、ぼくは牧野と吹奏楽部の日比谷と歩いていた。
「そーいや、剛塚のヤツ、大山にカバン持ちさせてなかったな」
牧野が興奮しぎみにそう言いだした。
「スッゲ、スッゲ。それってどういう風の吹きまわしなんだ?」
日比谷はされの上を行く興奮を見せている。
合宿以降、剛塚は大山にカバン持ちをあまりさせていなかった。
多分、合宿中にみんなで剛塚とモメたのがキッカケなんだと思うんだけれど、それでカバン持ちを辞める方向に進むとは意外だった。
最初のうち、大山はマヌケなことに剛塚に「今日はいいの?」なんて聞いてたりしてたみたいだけれど、最近はそういうやりとりもなくなった。
「剛塚ってのも根っからの不良じゃなかったのかもな。ホントはいいやつなのかも」
日比谷はお気楽にそんな事を言うのでぼくは反論した。
「でも大山は何年もカバンを持たされてたり、パシリに行かされてたり・・・」
「ラジバンダリ!」
牧野の意味不明なセリフでぼくの反論はかき消された。
ラジバンダリってのは流行りのギャグらしいんだけど、ぼくはお笑いには疎いのでちょっとイラッときた。なのに日比谷は爆笑していた。
そういや牧野と日比谷は中学の文化祭で、漫才でステージに立ったことがある。
「牧野と日比谷ってまだ漫才の練習とかしてんの?」
話題を変えてみた。
「そーいや、最近やってないな。日比谷が吹奏楽で忙しいって言うから」
「は?何言ってんだよ。牧野が陸上で忙しいって言ってるからだろが」
二人は駅までずっと言い合いしながら歩いてた。
多摩境駅からは三人とも京王線で上り電車に乗って帰るはずなんだけど、日比谷が下り電車に乗ると言い出した。
「悪い、今日は下り電車で橋本に行くよ」
「なんか用でもあるの?あ、まさかデートとかじゃねーだろな。くそ!」
デートなんて言ってないのに牧野は悔しそうに「くそ」なんて言い放つ。
「違うって。橋本にあるホールで十月に吹奏楽部の定期演奏会があるんだけど、それの舞台打ち合わせがあるんだよ。オレ、開場準備係だから・・・」
「なんだ、デートじゃないのか。しかもなんだ、やっぱり吹奏楽で忙しいんじゃん」
何故かホッとした表情の牧野。
「んじゃまた明日な」
日比谷はぼくらとは反対のホームに消えていった。
定期演奏会か。ちょっと興味あるな。暇だったら観にいこうかな。
ぼくと牧野は上りホームで電車が来るのを待った。
「なあ英太。あの新しい五月先生ってどんな感じなんだろな。厳しいのかな」
「どうなんだろうね。でもまだ若そうだよね。二十代後半って感じ?」
「そんくらいじゃない?でもなんかケンカ強そうだよな。腕とかすげーしまった筋肉だし。 太くはないけど力ありそうだよ」
ケンカかぁ。不良中学生にからまれて殴って撃退して謹慎になった先生だからな。
怖い先生だったらどうしよう。ちょっと不安がある。ぼくはスパルタは嫌だ。
「それにしてもさ。五月先生が来た時、紹介される前に剛塚はサツキって呼んだよな。しかも呼び捨てだし。知り合いなのかな」
牧野は疑問を口にした。
その疑問を聞いて、「もしかして」って思う事があったけど想像だけで話をするのは好きじゃないからぼくの推理を披露するのはやめといた。
「まあ明日にはわかるんじゃない?怖い先生か、そうじゃないか」
「それもそうだな」
今、考えても仕方ないしね。
翌日、二学期最初の部活があった。
練習着に着替えて校庭に集まる。
ウォーミングアップが終わると、校舎から五月先生が出てきて集合をかけた。
五月先生もちゃんとジャージとTシャツ姿で、どうやら一緒に走る気らしい。
「じゃあ今日からはオレ・・・いや、先生が練習を見ます。実はたまに練習をこっそり見てました。あと多摩川ロードレース大会も多摩選手権も観客席で試合を見てました。
だからみんなの走る特徴とかは知ってるつもりです。
でもみんなはオレ・・・いや、先生のことは知らないだろうから一緒に走って知ってもらおうと思ってます。
じゃあ今日からよろしく!まず今日は男子は80分ジョック、女子は60分ジョック。」
ダダーっと話し終えた五月先生はその後に、1キロ単位の走るタイムを設定した。
ぼくら男子は1キロを5分で走るように指示をした。
5分より早すぎても遅すぎてもダメだそうだ。
今までは雪沢先輩についていくという練習だったけれど、どうやら五月先生はタイム設定をして練習するみたいだ。
「残り10分になったら持てる力を振り絞ってスパートをかけること。それまでは1キロ5分を守る。ペースがゆっくりだから他の事にも気をつけてもらおうと思ってる。それは腕ふり。きちんと腕を振るように」
腕ふり?
ぼくはよくわからなかったが、雪沢先輩がうなづき、名高が「ほう」という顔をしたので、どうやら走りにちゃんと関係してくる事柄らしい。
「これからは雪沢に着いていく練習から、タイム設定する練習に転向していかなくちゃダメになるからなー。まずはそれを頭にしっかり入れてくれー」
なんだか楽しそうに笑いながら五月先生が言った。
どうやら怖い感じではなさそうだけど、新しいスタイルについていけるか。
まずはやってみてみないと。
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結局たくみは中距離用のスパイクピンは買わなかった。
たくみ自体、まだ迷っているようだ。
ぼくとしては少しホッとした。
たくみが中距離をやりたいのは理解できるんだけど、急に仲間が減るのはなんだか寂しいし、心細い。
夏休み後半の練習もたくみは長距離に所属したまま参加していたし、誰かに「中距離やりたい」とか言うでもなかった。
でもやはり距離の長い練習の時は、みんなから遅れることが多かった。
ぼくらは気づいていなかったんだ。
たくみは入部した時から長い距離に弱かったことを。
ただ、あの頃はみんな実力が低すぎたから、たくみがレース後半で遅くなっても、みんなと変わらないタイムでゴールしていた。いや、むしろ早かった。
でも、五ヶ月練習してきてみんなが実力アップしたことで、たくみが長い距離だと遅れるようになってきたのだ。
たくみは明らかに長距離向きではないということだ。
それでもたくみは休むことなく部活に出てきていた。
一回だけ、練習帰りにぼくは聞いてみた。
「たくみ、中距離転向の話どうすんの」
「ん・・まだわかんない」
合宿から二週間。まだ答えは出てないようだ。
「でも九月には新人戦があるじゃん。どれに出るか早く決めた方がいいんじゃん?」
「ん・・・だな。親切じゃん英太」
「え?ま、まあ心配じゃん」
「ライバル減らそうって作戦じゃないだろうな?」
「そんなセコくない」
くだらない言い合いできるってことは、そんなに深刻に悩んでるわけじゃないのか。
それとも明るく振る舞っているだけか。
そうして気がつくと、日が落ちるのも少しづつ早くなり、夏休み最後の日となった。
中学までと違い、宿題が無いのが心から嬉しい。
夏休み最後の練習はキツいのかと思ってたら、60分ジョックと筋トレのみだった。
入部した頃はこのメニューも相当ハードに感じたものだけど、今となっては軽いメニューに感じる。
すっかり体育部員といった感じだ。ていうか陸上部員か。
筋トレまでこなすと雪沢先輩が長距離チームを部室に集合させた。
「よーし、集合したかー。ミーティングするぞー」
雪沢先輩は普段より気合いが入った掛声を出した。
「九月は一、二年生だけしか出れない新人戦があるからな。今週中にも出場種目を決めようと思う」
この大会は新人戦という名前なのに二年生も出れる。変な大会だと思う。
変なルールだからマニアックな大会なのかと思ってたら、ちゃんとした公式戦で、地区予選に始まり関東大会まであるという大きな大会らしい。
でも関東大会より上は無い。やっぱり変な大会だ。
「それで新人戦を前に、今頃で悪いんだけどこれまでの練習のタネ明かしをしていこうと思う。シッカリ聞いてくれ。」
タネ明かし?
みんなが「ナニソレ」って感じでざわついた。
そのざわめきをたたき切るかのような一言が雪沢先輩から放たれた。
「実は今まで、練習メニューを決めてたのはオレじゃない」
何人かが驚きで「えっ?」って、つぶやいた。
「まあオレが考えてたのもけっこうあるけど、半分以上はオレじゃない。前にいた顧問の先生がメニューを作って、それをオレが実行してたんだ」
「前にいた顧問?」
たくみが質問し、雪沢先輩は「そう」と言った。
顧問・・・。
ぼくは少し離れたところにいる、くるみの方を見た。
くるみはぼくを見てうなづいた。
あの時の・・・。
デビュー戦前にくるみとスタバ裏で「盗み見」した時に、何かメモを渡していた人・・・?
「おい、まさか・・・」
そう声に出したのはぼくではなく、剛塚だった。
「まさか顧問って、謹慎になったっつー・・・」
剛塚は他のみんなより驚いていた顔をしている。いつもより声がでかい。
驚いてるというより興奮している感じだ。
「あいつが練習メニューを作ってたのか?」
剛塚は雪沢先輩に掴みかかりそうな勢いだ。
その時だった。
部室の入り口の方向から声がした。聴きなれない声だった。
「あんまりよー、興奮すんな。剛塚」
みんな一斉にその声の方向を見る。
部室の入り口には、壁に片手をついて立っている大人の男性がいた。
見た瞬間バリバリと音をたてて、ぼくの記憶が甦る。
スタバ裏で見た人に違いない。
ポカンとするみんなを気にせずに剛塚は言った。
「サツキ・・・」
すると雪沢先輩はみんなに聞こえるように大きめの声で紹介した。
「そう、長距離チームの顧問の五月隆平先生だ。明日からまた練習を見てくれることになったからなー」
サツキ・リュウヘイ先生はみんなに向かって頭を下げた。
「長距離顧問の五月です。半年遅れてしまったけれど、よろしく」
この五月隆平先生の登場で、ぼくらの部活は新しく動き始めることになる。
そう、全てが新しく。今年最後の戦いへ向けて。
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夏休みも残すところ一週間となった。
今日は練習は休みなので家でゴロゴロしてようかと思ってたんだけど
昼頃、たくみからメールが来た。
《今日ひま?新しいジャージ買うの付き合ってくれない?》
普段ぼくはあまりメールでたくみとやりとりしないんだけど珍しくメールが来たから、付き合ってみることにした。
《いいよ、どこで何時に会う?》
ぼくがメールすると返信はすぐに来た。
《いいの?暇だったの?彼女とかいないの?じゃあ多摩センター駅改札に三時に》
メールでも質問ばっかだ。
きっとたくみは将来リポーターかなんかだ。嫌味な感じの。
多摩センター駅はぼくの住む堀之内駅の隣にある大きな駅でサンリオ・ピューロランドがある駅として有名だ。
ぼくが部活で履いているブルーラインのシューズを牧野と買いに来たのも、この多摩センターのスポーツショップだ。
そういえばブルーラインのシューズもだいぶ汚れてきた。
一足しかないから消耗が激しい。お母さんに頼んでもう一足買ってもらおうか。
多摩センター駅の改札に到着すると、たくみが手を振っているのが見えた。
「おまたせ、たくみ」
「待ってないよ。それに誘った方が先に着くのが当然だろ」
「そ、そう?」
「まあいいよ。ジャージ買いたいんだ。そこのスポーツショップ行こう」
ぼくとたくみは駅の近くにあるスポーツショップへ入った。
前に牧野と来たのと同じお店だ。
ここは陸上の物はもちろんだけど、野球・サッカー・テニスなど運動部にありそうな種類の製品はたいてい置いてある大型店だ。
ぼくとたくみは当然、陸上用品のコーナーへ進んだ。
陸上用品のコーナーには競技場用のスパイクやジャージ、ランニングシューズなどが所狭しと置いてある。
「あ、このシューズ、英太のヤツじゃん」
言われて見ると。ぼくのと同じブルーラインのシューズが飾られている。
こうして新品を見るとやっぱりぼくのは汚れてきてる感じがするけど、いま飾られている新品より、汚れてるぼくのシューズの方がオーラがあるように思えてならない。勘違いだろうか。
たくみはジャージ選びに時間がかかっていた。
どの色にするか、どのメーカーにするか、どのデザインにするか、などなどぼくに意見を求めまくる。
そのくせぼくが「これがいいよ。」と言っても「センス悪・・・」とか言って聞く耳を持たないのが腹立つ。
あんまり長い時間選んでるものだから、ぼくは飽きてスパイクのコーナーを一人で眺めることにした。
一般にはあまり知られていないようだけれど、長距離もスパイクを履く。
サッカーや野球みたいにいつも履く訳じゃあない。
靴の裏にピンがいくつもついていて、地面を蹴ると前に進む力が普通のシューズより多く得られるのだ。
走る距離によってスパイクのピンの長さが変わる。
短距離のスパイクなんかかなり長いピンがついてるけど長距離のピンは短い。
もちろん道路とかを走る時とかは履かない。
陸上競技場を走る時だけにしか使わない。
こないだ出場した多摩選手権、ぼくはいつものブルーラインのシューズで出た。
でもブルーラインは練習で走る時のランニング・シューズであって、陸上のスパイクではない。
周りの選手はほとんどスパイクを履いていたのでビックリした。
もちろん普通のシューズでも出場できるから問題はないんだけど、なんだか道具からして負けてる感じがして恥ずかしかった。
ぼくがスパイクを眺めていると、いつの間にかたくみもスパイクを見ていた。
でも、たくみが見てるスパイクのピンは短距離用の長いやつだった。
「たくみ、それ短距離用じゃないの」
「いや、これは中距離用だよ。800メートルとかの」
「中距離の?」
ぼくらの部では長距離チームは1500メートルから一万メートルに出場している。
800メートルというと少しだけ専門外となる。どちらかというと短距離チームが出る。
それなのに、たくみは熱心に800メートルのスパイクを見ていた。
「たくみ、中距離やりたいの?」
ぼくは恐る怖る聞いてみた。
「ん?んん・・・」
たくみは浮かない顔で生返事をした。
やや沈黙が流れる。
中距離をやるとなると今までの長距離の練習ではなくて短距離的なスピード練習を主にやらなくてはいけなくなるハズだ。
そうなると短距離チームに所属した方が良くなる場合もある。
ぼくは少し心臓がドキドキしてきた。
「たくみ・・・」
ぼくが言いかけるとたくみはブツブツと話し出した。
「おれさ。持久力つけて早くなるなんて言ってたけどさ。距離が長くなるとスピードがガクンと落ちるんだ。合宿なんかそうだったろ?毎日長い距離ばっかだったからさ。後ろの方ばっか走ってた」
確かに合宿でのたくみは、ほとんど前には出てこなかった。
「だからさ。得意な中距離に照準を絞ろうかと思ってんだけど・・・。でも長距離は嫌いじゃないからさ。なんか迷っちゃって」
そう語るたくみはいつになく低い声だった。
そう、たくみは中距離への転向を真剣に考えているのだ。
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夏というのはあっという間に通り過ぎていく。
毎日うるさかったセミの鳴き声も、気がつけば少しセミの数が減ってきているし、空に浮かぶ雲の形も、どこか秋を感じさせるものが多くなってきている。
この夏のぼくは走りっぱなしだった。
あの山中湖の合宿から帰ってきて、すぐに多摩選手権に出場をした。
ぼくの出たのは5000メートルだ。
自己ベストを更新する会心を走りをして予選を突破。
ところが進んだ決勝は、多摩地区だけの大会といえども早い連中が多くて、40人中30位という大して目立ちもしない結果に終わった。
同じ5000メートルに出場したのは名高と牧野。
名高は決勝で5位、牧野は23位だった。
名高は一年なのに5位ということで、いきなり注目の的となっていた。
次元の違う名高はいいとして、ここのところぼくは牧野に負けることが多くて、そのことの方が悔しかった。
雪沢先輩と穴川先輩は一万メートルに出場。
雪沢先輩は予選を突破し、決勝はまあまあというところ。
たくみは1500メートルに出場し、予選を突破して決勝では善戦していた。
善戦したのに、たくみは試合後に何か悩んでいた。
でもぼくはあまり気にとめてなかった。
そんな多摩選手権が終わると、陸上部もお盆休みになった。
ぼくの家族は特に旅行の計画とかは無かった。
そのかわり、単身赴任中の父親が家に帰ってきた。
ぼくの父の相原昇は果実酒のメーカーに勤めていて、ここ何年かは名古屋の方に単身赴任している。
一年のうち、お正月・ゴールデンウィーク・お盆・結婚記念日・年末だけに家に帰ってくるという生活だ。
あと数年で東京本社に帰ってくるという話が出ているらしく、そうなると給料も上がるので大型プラズマテレビでも買おうかなんて言ってるらしいけど、その前には地デジの時代に突入しちゃうかもだ。
そのお父さんには富士山五合目で買ってきた富士山の置物をプレゼントした。
「おおー英太、ありがとうな。名古屋のマンションに飾るよ」
お父さんはなんだか妙に嬉しそうにそう言ってくれた。
やっぱり息子にプレゼントもらうのは嬉しい事なんだろうか。
「でもな英太。俺はお前が多摩境高校で陸上やることにはまだ不安があるよ」
お父さんがそう言いだしたのは、お盆休み三日目の夜の事だった。
ぼく・お父さん・お母さん・弟の四人で近所の盆踊りに行った帰りだ。
お母さんと弟の大介が先に家に帰り、ぼくはお父さんと二人でたこ焼きを食べながら家に向かって歩いていた時に、そう切り出された。
「え、なんで?」
そうとしか言えなかった。
なんでお父さんが陸上部をやることに不安があるのかが全くわからないからだ。
もしかしたら中学で吹奏楽をやっていたのに急に運動部に転向しちゃったのが、親としては気に入らないのかもしれない、そう思った。
「なんでって。英太、おまえ・・・多摩境高校の陸上部だぞ」
お父さんはたこ焼きを飲み込んでから少し嫌な顔をして言った。
どうやら転向うんぬんじゃなくて多摩境高校の陸上部ってのがネックらしい。
「なんで、不安なの」
何故、お父さんが多摩境高校の陸上部を嫌がるのかがわからなかった。
「ん。もしかしてお前、知らないのか。事件のこと」
「事件?」
事件という単語を聞いて、体にざわざわとした嫌な鳥肌が立った。
この鳥肌が立つのは久しぶりだ。
小学校の時に弟が車にはねられて骨折した時と、中学三年の時に好きな女子に彼氏がいると噂で聞いた時以来だ。
「そうか、知らないのか。じゃあ仕方ないな。まあお前には責任ないしな」
お父さんは次のたこ焼きにつまようじを刺した。
歩きながら話してるせいか、つまようじは妙な角度でたこ焼きに突っ立てられた。
「事件て何?」
ぼくは事件が気になった。
何か嫌な言葉だし、それにぼくも陸上部は過去に何かがあったんじゃないかと少し考えていたりもしたからだ。
「乱闘事件だよ。顧問の先生が近くの不良中学生グループと乱闘騒ぎを起こしたんだ」
「乱闘事件?顧問の先生が?」
志田先生?
「まあその先生は謹慎になったらしいけどな。半年間くらいだったかな。それに乱闘は不良中学生グループが先生に襲いかかったらしいけどな。事件は二月くらいだったからまだ謹慎中かもな」
だとすると志田先生じゃない。
そういえば以前、雪沢先輩に「長距離チームには顧問いないんですか」と聞いたら、なんとなく話題を避けられたことがあった。
乱闘事件の話をしたくなかったからなのか。
「ちょっと新聞にも載ってたからな。英太は知ってるのかと思ってたよ」
新聞なんかテレビ欄と四コマ漫画しか見ない。
「まあ入学前の話だしな。今の陸上部とは関係ないか。とにかく、やるならシッカリ走れ。中途半端は好きじゃない」
そこだけ力強く言って、またたこ焼きを頬張った。
今の時代、インターネットを使えば過去の事件くらい自宅で調べられてしまう。
お盆休みが終わって練習が再開されたころ、インターネットで調べてみると
「多摩境高校の陸上部顧問、地元中学生を殴る」という見出しのニュースが確かに存在した。
ただし扱いが小さいので事件の詳細はわからない。
ただ乱闘は中学生が仕掛けたもので、先生は応戦したということの様だ。
そして六ヶ月の謹慎と書いてある。
事件は今年の二月十九日の出来事。すると半年後というのは・・・
お盆明け、つまり今この時期ということになる。
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ゴール地点である五合目が近くなって富士山はぼくらに牙を剥いた。
これまでもきびしい登り坂だったけど、最後になってさらに急勾配になったのだ。
時折通る車でさえブオーっという大きなエンジン音を出して坂を登っていく。
それも大したスピードは出ていない。
ぼくらも走っているものの、歩くのと変わらないスピードにまで落ちた。
それでも歩かなかったのは、前にいる穴川先輩も、後ろにいる剛塚も歩かなかったからで、本当は歩きたくってしょうがなかった。
頑張っても頑張っても穴川先輩には追いつけないし剛塚の追跡を振り切れない。
この二人がこんなに粘りを見せたのは初めてだった。
穴川先輩はぼくに抜かれたり追いつかれそうになると、手を抜いたりあきらめたりする人だったハズだ。
剛塚には追いつかれたことすらない。
足の筋力があるからアップダウンがあるコースに強いかもしれないと牧野が言っていたけど、まさかこの富士山登りで追いついてきて、しかも、ぼくから遅れないように粘りまで見せるなんて想像もしてない展開だ。
そんな事を考えながらも必死に進んでいると、周りにあった森が無くなった。
右側には茶色い斜面が現れて、その斜面は遥か頂上まで続いていた。
木なんてほとんど無い斜面が富士山の頂上まで続いているのだ。
左側は空だ。遠くの山々と雲が見えるだけだ。
そして前は坂が緩くなった。
その坂の先には駐車場らしきものが見えた。
またもいつの間にかぼくらを追い越していた志田先生の車が見えた。
「ゴールだ・・・」
そう思った瞬間だった。穴川先輩も剛塚もラストスパートをかけた。
タイミング的には一瞬遅れたもののぼくも最後の力を振り絞りスパートをかけた。
三人とも同じ速さだ。
「こんなバカな・・・」
そう思った。
いつもの穴川先輩と剛塚ならすぐに置き去りにできるハズだ。
何が二人にこの力を与えているのか。
合宿という特別な環境か。
富士山という日本一の霊山の影響か。
はたまた昨日の大石さんの言葉か。
「イラついたり、あきらめたりなんてカッコ悪い。遅くたって調子悪くたって、全力で取り組むのがカッコいいんだよ。最後、富士山。プライド捨てて全力で走ってきな」
全部だ。
きっと合宿も、富士山も、大石さんの言葉も、そして今までの出来事の全部が混ざり混ざって化学反応を起こして二人にかつてないパワーを与えているんだ。
それならぼくだって負けているわけにはいかない。
ぼくだって条件は同じだ。
条件が同じなら今まで勝てた相手に負けるわけにはいかない。
ほんの一瞬、ぼくは目を閉じた。
「全力で取り組むのがカッコいいんだよ」
大石さんの言葉が頭に響いた。
そして目を開けて歯を食いしばり、腕を思い切り振って走った。
ついに長い長いコースが終わった。
ゴールした時、穴川先輩も剛塚も後ろにいた。
二人とも悔しいだとかいう感情は見えなかった。
ただ息を切らして倒れこんだ。
ぼくもその場に倒れこみ、三人は横並びに倒れた。
最後に激戦を繰り広げたからといって「やるなあ」とか話す気力もない。
信じられない程に疲れた。
そこへ雪沢先輩がやってきた。
「お前ら・・・ものすごいデットヒートだったな。見てて爽快だったよ」
爽快?どこが?必死だっての。
必死?
これまで穴川先輩も剛塚も必死になんて走ってなかったはずだ。
ゴールして倒れこむほどの必死さなんて穴川先輩はしていなかった。
でも今はぼくの隣に倒れこんでいて、なにかをつぶやいた。
「全力ってのも悪くないかもな・・・」
何かが変わりつつあるのか・・・。
だとしたら、ぼくにとっては強敵になる。
強敵・・・か。
「なんだか楽しくなってきました」
ぼくは雪沢先輩にそうつぶやいた。
疲れてるし息も切れてるしで、ちゃんと聞こえたのか自信なかったけど、雪沢先輩は一瞬あきれた表情をした後に笑ってこう言った。
「ホント、なんだか楽しくなりそうだな。今年の長距離チームは」
それが聞こえたのか、穴川先輩と剛塚は少し笑った。
雲の上まで走るというバカげた練習が、チームに何かを与えてくれたようだ。
この富士山登りは一位は雪沢先輩、二位はわすかに遅れて名高だったらしい。
それからずーっと遅れて、牧野・ぼく・穴川先輩・剛塚・たくみとゴールした。
ビリは大山でたくみのあと20分くらいしてからのゴールだったけど、大山としては完走できたのが嬉しかったらしく号泣していた。
こうして合宿最後の練習は終わった。
ぼくらは五合目にあるお土産物屋さんで、各々いろんな物を買って見晴らし館へ戻り、短距離チームと合流した。もう帰りのマイクロバスが準備されている。
お世話になった大部屋で荷物をまとめてマイクロバスに乗り込む。
乗り込もうとした時、部長の中尾一輝先輩にこう聞かれた。
「富士山は特別だったろ」
ぼくは即答でこう言った。
「特別すぎました」
「だろうな。なんかそんな顔してるよ、長距離チームのみんなは」
言われて長距離チームを見回した。
みんな何かをやりとげた顔をしている。笑顔だ。
ここで、またコーヒールンバが聴こえてきた。
大石さんはいつにも増して全力で歌っている。
「また来年も来るんだよ!おいしいものをたーんと準備して待ってるからね!」
おいしいけど量は増やさないでほしい。
大石さんはぼくらが帰りのマイクロバスに乗っても歌をやめなかった。
志田先生が「お世話になりました」と言っても
ぼくらが一斉に「ありがとうございました!」と叫んでも歌をやめなかった。
バスが動き始めてもコーヒールンバはやめなかった。
コーヒールンバは少しずつ遠くなっていき、やがて聴こえなくなった。
「面白い人だったな」
隣の席の牧野がつぶやいた。
三泊四日の山中湖合宿。
ぼくらはいつもと違う空の下、いつもと違う練習をして、今までと違う何かを手にした。
それは長距離チームのみんなを強くする何かであったのだけど、ただ一人、違う何かを手にしてしまっていた。
後々、重大となるこの事に、ぼくはまだ気づいていなかった。
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3キロ地点を通過してからは登り傾斜角度がさらにキツくなった。
正直な話、こんなトコを走る必要あんのか?と考えた。
それほどの登りだ。
ほとんど歩くような早さしか出せないのに、ぼくは必死こいて走っていた。
前にいた連中はもう見えなくなっていた。
後ろにも誰も見えない。見えるのは真横に並んで走っているたくみ一人だ。
たくみは「フィー、フィー」と言いながら歯を食いしばって走っている。
歯を食いしばってるところなんか気合入ってる感じもするけど、そんなトコに体力使うくらいなら走る方に使ったほうがいいんじゃないか。
そんなぼくも息切れで声が出ていた。
たくみを振り切るためにスピードを上げるなんて余力は無い。
ただ登る。それだけだ。
しばらく走ると志田先生の車が前に止まっていた。
いつの間にかぼくらを抜き去って、給水ポイントを作っていたらしい。
長机が置かれていて、その上に紙コップが並んでいる。
「み、水、水ー」
ぼくはかすれた声でそう言いながら、紙コップを取り、中に入っていた透明な液体を飲み干した。アクエリアスだ。
すると給水ポイントにいた未華が笑いながら言った。
「砂漠で遭難してる人みたいじゃん!お。オアシスだー、みたいな」
ケラケラと笑うが、そんな冗談に付き合う余力はない。
すぐにまた登り始める。
一緒に走っていたたくみもアクエリアスを飲んで走り出した。
未華の横にいた、くるみが声を出す。
「英太くん、たくみくん、ファイトー!」
くるみの応援は何よりの力になる。
ん?そうだっけ?
まあいい、とにかく力が出てきた。前へ前へ進むだけだ。
しばらくはたくみと二人で登っていた。
ぼくもたくみを酷い顔をしている。その酷い顔が一瞬だけ笑顔になった。
下り坂が見えたのだ。
スタート以来ずっと登りだった道に、ついに現れた下り坂。
しかしまたすぐ酷い顔に戻った。
下り坂は50メートルもなかった。しかもその先には強烈な登り坂が見えていた。
「マジかよ・・・」
たくみが息切れしながらつぶやいた。
その時、ぼくは「チャンス!」と心でつぶやいた。
ぼくは下り坂を一気に全速力で駆け下りて、勢いそのまま登り坂を登った。
ぼくはずっと下り坂を待っていたのだ。
楽できるからじゃない。下りで勢いをつけて、走り自体にも勢いつけるためだ。
ぼくの卑怯なこの作戦は上手くいった。
ぼくは走りに勢いをつけることに成功して、ペースアップできた。
逆に、たくみは登り坂を見てあきらめかけたのか、ペースダウンしたようだ。
二人の差は少しづつ開いていった。
例の下り坂のあと、視界が一気に悪くなった。
さっきまで晴れていたのに、急に周りに霧がかかってきたのだ。
薄くなったり濃くなったりするものの、遠くまでは見えない状態が続いた。
山の天気は変わりやすい。
テレビで誰かがそう言っていたのを思い出す。
雨でも降るのだろうか。
霧はだんだんと濃くなっていく。
体には汗の他、この霧による水滴がついてきた。
体が冷えるかもしれない。急に体が冷えるのは良くないんじゃないだろうか。
そう思ったとき、後ろから足音が聞こえた。
振り返ってみるが、濃い霧のせいで人は見えない。
だけど、確実に聞こえる。人の足音、そして息使い。
かなり息切れしているけど、誰かが追ってきてるのがわかる。
霧に気をとられてペースダウンしてたのだろうか。
たくみに追いつかれつつあるらしい。
たくみと分かっていても、霧の中から聞こえる姿なき声は怖い。
ぼくは必死で前へ進んだ。
突然の事だった。
いきなり目の前に広大な青空が広がったのだ。
霧が吹っ飛んだのか、それとも霧のエリアを抜けたのか。
見えたのは青空と緑の森、そしてすぐ前方に穴川先輩の背中が見えた。
「あ!!」
追いつけそうな差だったので思わず声を上げてしまった。
穴川先輩はぎょっとした顔で振り向いた。
その顔はぼくを見た後、さらにぼくの後ろを見て驚愕していた。
穴川先輩は珍しく猛烈なペースアップをした。
何事かと思い、ぼくも後ろを見た。
後ろにはまだ少し霧がかかっていた。しかし、そこから一人飛び出してきた。
「たくみ・・・!!」
思わずそう言ったが、霧から飛び出してきたのは剛塚だった。
意外だった。
霧の中、追ってきていたのは剛塚だったわけだ。
これまで剛塚に追いつかれたとこなんて一度も無いのに。
その剛塚はいつになく必死な顔で追ってきていた。
やばい、追いつかれる。
そう思った時、残っていた周りの霧が全てなくなっていることに気づいた。
まるで剛塚が吹っ飛ばしたみたいだ。
「あ、あれ?」
霧が全て吹き飛んで見えたのは、青空だった。
どうやら今、崖の横を走っているらしく、遠くまで見晴らしがいい。
遠くの下の方には街並みや雲とかが見えた。
下に?
ぼくらの位置より下に雲が見えた。
そうか、さっきのは霧じゃなくて雲だったのか。
今、ぼくらは山を登り登って雲の上にまで来てしまったのだ。
下は雲。じゃあ上は?と思って見上げると、山の上の方にポツンと建物が見えた。
きっとあれがゴール地点だ。
ゴールは近い。穴川先輩を追って、剛塚に追われて、合宿最後のスパートだ。
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合宿最終日。
ぼくら長距離チームは今回の最後の戦いの場に来ていた。
それはもちろん富士山の登山口だ。
登山口といってもキチンと舗装された道路で、五合目まで続いているらしい。
ぼくは目の前にそびえる富士山を見上げたが、どこが五合目なのかは全くわからないし、もちろん肉眼では見えない。
走るのは男子メンバーのみだ。
女子メンバーは志田先生の運転する車に乗り込んで、後ろからついてくるらしい。
スタートを前に雪沢先輩はメンバーをスタート地点に集合させた。
「それじゃあ、合宿最後の練習に入る。富士山登りだ」
雪沢先輩は富士山を指差した。
改めて見ると信じられない大きさだ。こんなの登るのか。
「みんな、この富士山登りは今までやってきた練習の中で一番辛いハズだ。昨日やった山中湖二周より距離は短いけど、辛さは上回る。なんつってもコースの99.9%は登りなわけだからな」
すかさずたくみが質問した。
「てことは0.1%下るとこがあるんですか」
「ある。12キロくらいのコースのうち、30メートルくらいかな」
「げえ・・・」
牧野が唸った。
気持ちはわかる。つまり大ざっぱに考えるなら11970メートルは登りだ。
雪沢先輩はそんなメンバーの空気を悟ってか、しんみりした口調になった。
「みんな、最終日までよく生き残ってくれた」
まあギリギリ生き残った感じもするけど。
「実は去年は12人参加して、この最終練習まで残ったのは6人しかいなかった。ケガや疲労で練習からリタイヤしたヤツもいたし、合宿から逃げたヤツもいた」
雪沢先輩は一瞬、遠くを見るような眼をしたが、すぐに元の眼に戻った。
「でも今年は全員が生き残った。これはスゴイと思う。ここまで生き残ったことを誇りに思ってくれていいと思う。
長距離は個人種目だけど、オレは今のメンバーはいいチームだと思う。このいいチームでこの富士山登りをやりとげよう。」
雪沢先輩は一気に言った。
言い終わった後、何人かが声を合わせて叫んだ。
「おう!!」
スタートの合図はいつも通り未華が出した。
「ヨーイ、スタート!!」
元気な未華の声で、ぼくらはスタートを切った。
まずは3キロにも及ぶ直線の登りだ。
この直線はゆるやかな登りという事だが、直線3キロというのは辛い。
なにしろ先が見える。
見えるのに先が長すぎてどこまで続いているのか、わからないほどの長さだ。
この二車線の道が富士山に吸い込まれていくように見える。
しかもそれが全部、登りなわけだ。
いつも通り雪沢先輩が先頭を走り、それにみんながついていく形で走っているのだが、さすがにスローなペースだ。
それなのにぼくはすぐに足が重く感じてきた。
足が重いので腕を大きく振ってムリヤリ前に進むようにする。
が、振りすぎて今度は腕が重くなってきた。
足も腕も重いので息が切れてくる。
やたら早く息切れしだしたので、そんなに進んだのかと思って後ろを振り向いたら、ちょっと遠くにスタート地点が見えた。
1キロくらいしか進んでない。
「こ、こんなにキツイの?」と心の中で叫んだ。
周りを見ると、メンバーみんな息を切らして走っている。
ぼくだけが調子悪いというわけじゃなさそうだ。それほどの登りなのだ。
ゆるやかな登りだなんてとんでもない!よく見ればかなりの上り坂だ。
その横を志田先生の運転する車がゴーという音をたててぼくらを追い抜いていった。
未華が窓から叫ぶ。
「3キロ地点で待ってるからねーー。ファイトーー!」
「ファイトー!」
くるみも叫んでいた。
その車でさえ、まるで高速道路を走るかのようなエンジン音をたてていた。
ハンパな登りではない、とエンジン音から直感する。
3キロという直線の長さで傾斜角度をゆるいと錯覚してたのだ。
そこから500メートルも走ると、早くも集団がバラバラになりかけてきた。
雪沢先輩・名高・穴川先輩・牧野の四人が固まったまま走るが、大山、剛塚、たくみの三人が同時に遅れだした。
ぼくはその三人より30秒ほど粘ったが、雪沢先輩たちの集団から遅れだした。
振り返ると、まだ直線の真ん中あたりだとわかった。
つまり1.5キロくらいしか走っていない。
「う、うそ・・・」
思わずそうつぶやいた。
こんな早く遅れるなんて・・・。くっそ!
再び腕を振るが息切れは激しくなる一方だ。
なんてキツさだ!甘く見てた!
先頭集団の四人の背中を必死で追いかけるが、徐々に背中が小さくなる。
だがその四人もバラけてきた。
雪沢先輩と名高の二人が前に出て、穴川先輩と牧野がその後ろについていった。
そう思うと、先頭の二人が突然、横に曲がった。
続いて穴川先輩と牧野も横に走った。
直線の終了だ。
もうここでゴールでいいんじゃないかと思うほど「やっとかよ」と感じた。
やや遅れてぼくも直線を抜けて横に曲がる。
曲がると同時にたくみに追いつかれた。
たくみの表情はすごかった。歯を食いしばっている。
それが面白い表情だったので吹き出しそうになったけどそんな余裕はない。
「ファイトー!!」「ファイトー!」「いっぱーつ!!」
未華とくるみの声が聞こえた。3キロ地点だ。志田先生のつまらないギャグも聞こえる。
まだ3キロ??
ここからは200メートルほど進んでは曲がり、また200メートルほど進んでは曲がる。
それが永延と続くと、昨日雪沢先輩に聞いていた。
そういえば雪沢先輩は他にも何か言っていた。
なんだっけ。走りながら昨日のことを思い出す。
昨日・・・。くるみの私服姿がかわいかった・・・。いや、そうじゃなくて。
あ、そうだ。思い出した。寝る前に雪沢先輩が言ってたんだった。
「直線が終わると登る角度がキツくなる。そこからが登りの本番だ」
その言葉を思い出して前を見ると、さっきまで以上の登りが目に飛び込んできた。
「う、うそでしょ・・・」
まるで壁だ。
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